「魔の日本古代遺跡/武光誠・著」より
縄文人の魔の信仰は、全てのものに霊を感じるアニミズム、つまり精霊崇拝であったと言える。
弥生文化を伝えた人々は、日本列島に移住する前から水稲耕作を行っていた。
彼らは自然と共存しなくても食料を得られた。
縄文人が行った動物を捕りつくさないようにする気づかいは、弥生人には無縁であった。
しかも貯蔵出来る穀物が個人の財産と考えられるようになった為、水稲耕作と共に貧富の差が芽生え身分制度が作られてしまった。
富める者は貧しい者を自分の家に入れまいとして柵や垣根を作り、共有財産制をとり誰とでも分け隔てなく付きあえた縄文時代の社会の大らかさは失われてしまった。
弥生人のそのような在り方を区分の発想と呼ぼう。
弥生人も死者の霊の働きを重視していたが、彼らは全てのものに霊性を認めず、自分達の祖先を神として祀った。これを祖霊信仰という。
彼らは集落の全ての構成員の祖先達が神になり集落を守っていると考えた。
この発想は現代の行事にも受け継がれている。
正月は本来は年の初めに年神様と呼ばれる祖霊を家に迎える行事であった。
人々が年神様が下りて来る時の目標として門松を立て、鏡餅やおせち料理を供えて祖霊をもてなすのである。
弥生時代中期の開始期にあたる紀元前1世紀末に、江南から進んだ文化を伝えた移住者がいた。
彼らは祖霊信仰の段階にあった。江南の銅製品を魔除けとする発想を受け継いで、弥生時代中期に銅鏡や銅剣、銅矛、銅鐸を用いた大がかりな祀りが整えられている。
その大筋は大和朝廷に受け継がれた。
それ故、今の皇室でも弥生時代の祭器である鏡・剣・玉を三種の神器としている。
但し、祖霊信仰の段階の人々は魔を否定しなかった。
日本神話の中の大国主命の話は、弥生時代の人々の発想を残す素朴な内容である。
そこでは大国主命が皮を剥かれた白ウサギを助け、ネズミに命を救われたとされる。
このような動物との交流はアニミズムによる縄文人の信仰から来るものである。
また大国主命は少彦名命という小さな神に知恵を借りて国造りをしたとされる。少彦名命のような異形の神は魔であり、それは座敷童子と共通する性格を持つ。
大和朝廷の支配が広まる中で、このような魔の信仰を否定することによって発展して行ったと言える。
つまり日本の統一は魔を信じる人々を力で従え、神道に繋がる大和朝廷の信仰に改宗させることであった。
大和朝廷が生み出した信仰を首長霊信仰という。
それは首長と呼ばれる人々の指揮者は、死後に力のある神となって、後継者である首長やその支配下の人々を守るとする信仰である。
大和朝廷を治める大王は、始めは朝廷発祥の地のそばにある三輪山の神、大物主神が自分の首長霊だと唱えた。
のちに天照大神がそれに代わる。
中央や有力豪族の祖神もつくられ、次第に彼らを天照大神の家来神や王家の分家の神とする話も出来上がっていった。
このような首長霊信仰によって、民衆は豪族に従い、豪族達は大王に従う秩序がつくられていった。
そして出自を重んじる血統主義や首長霊信仰に合わない考えを支配者が否定する思想統制が始まった。
大王は首長霊の後援のもとに人々の生活を豊かにしなければならない。
そこで異文化の積極的受容を通じて国を富まそうとする発想が生じ、朝廷は鉄資源を求めて朝鮮半島へ進出し、鉄製農具が普及して行った。
首長霊信仰は、朝廷の支配層が自分達の全国支配を正当化する為につくり出したものかも知れない。
しかし奈良時代から平安時代の朝廷の記録は、大和朝廷が生まれたとき、天皇の祖先に日本を治めよと神が命じたと記している。
貴族層は朝廷が生まれた3世紀半ばに、首長霊がどこからか大王を守りにやって来たと真剣に信じていた。
これまで紹介してきた魔と異なる何らかの呪力を持つものが王家(皇室)を守っている。
つまり伊勢神宮の天照大神のおかげで、天皇家が今でも重んじ続けられているとする発想を完全には否定出来ない。
続く
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