「魔の日本古代遺跡/武光誠・著」より抜粋
古代の朝廷の祭りは一般的に豊作を願う農耕神の祭りから成ると言われているが、「大宝律令」に見える天皇家の祭りの中に、そうではない呪術的なものがあることに注目して見ると、
一例として旧暦3月に行われている鎮花祭(はなしずめのまつり)がある。
これは三輪山の神を祀る大神(おおみわ)神社と、その神の荒御霊を祀る狭井神社の祭祀であり、春に花が飛散する時、疫病が四方に分散して病を起こすことを防ぐ為のものだ。
祀りは祝部(はふりべ)と呼ばれる神社の神官の手で行われるが、天皇家は神祇官の役人に幣帛(へいはく・捧げ物)を送らせ、その行事に参加する。
このような祀りは呪力を用いて疫病を起こす魔を押さえ込むもので、縄文時代もしくはそれ以前からのものだ。
それは多くは病気を呪物につけて、焼いたり流したりする形で行われる。
中世に盛んになる京都の祇園祭や、今宮神社の安須良比(やすらい)花祭も鎮花祭と同じ性格のものである。
また、蘇我氏や聖徳太子は陰陽五行説を朝廷に取り入れていた。
中国特有の祥瑞思想も伝わった。
それは自然の特異な動きを基に先に起こることを読むものである。
例えば、大化改新のあと白いキジが現れた時、中大兄皇子はそれが改心政治を進めよとの天のお告げだと唱えた。
江戸時代までの天皇家の役目は、多様な祀りを誤りなく行うことにあった。
これは現在の皇室にも受け継がれている。
朝廷の祀りの中で、魔的な要素の祀りがある。
そこで特に重要なものを一点だけ述べるが、皇室に仕える八瀬童子(やせどうじ)という奇異な集団がいる。
彼らの役割は座敷童子に通じる魔的な子供の神の代わりを務めることにあった。
八瀬童子を出す集落の人々は,「鬼の子孫」と自称していた。
そして皇室もそれを認めていた。
彼らは天皇崩御の時の一世一代の出番に備えて生活している。
八瀬童子の役割は天皇の柩を担ぐことにある。
鬼の子孫に担ぎ上げられることにより、亡くなった天皇は神の地位に昇るとされていた。
昭和天皇の葬礼でも八瀬童子が活躍した。彼らは京都の町のすぐ北方の八瀬の地に代々住んでいた。
八瀬は山中にあり、八瀬童子を出す集団は山の民であった。
彼らは形の上では比叡山の支配下にあったが、江戸時代までは租税免除の特権を与えられていた。
八瀬童子が記録に表れるのは平安時代末である。
その頃、彼らは既に自分達は比叡山の門跡(高位の僧侶)が閻魔王宮から帰る時に御輿を担いでやってきた鬼の子孫だと唱えていたと言う。
彼らの仕事は極めて呪的なものであった。
八瀬童子が強い呪力を持つという発想から、後に彼らを鬼の子孫とする言い伝えが作られたのだろう。
終わり
奥入瀬(おいらせ)惣辺(そうべ)バイパスを通って十和田湖一週してきました
惣辺バイパスからは八甲田連峰が綺麗に見えました
八甲田連峰拡大写真
十和田湖休屋に着いて十和田神社の
の背後にある山を登り
パワースポットで知られる占い場頂上に着きました。頂上から湖を眺める
頂上には青龍大権現の神社があり
神社の右側には占い場へ降りる鉄の梯子があります。4,5メートル位の一つ目の梯子を降りて行くと
次に30メートル以上の二つ目の梯子があります。
30メートルの梯子を降りて下から上を見上げるとこんな感じ。降りる時は凄く怖かったけど、降りれることが出来て満足でした
30メートルの梯子を降りると次に1メートル位の梯子があり
湖岸から見るこの碧さはなんとも言えない神秘な色に感じました。
この杉の木の水際には石のお堂があり、十和田湖伝説にある南祖坊が入水したといわれる占い場になっています。ここは古くから、龍神信仰のある十和田湖随一霊場で、祈りを捧げ、吉凶を占う場所とされていたそうです。
十和田神社からいただいた「おより」をこの湖面に浮かべ、思いを込めて占場に問います。垂直に沈下すれば大吉とされます。
湖岸から対岸の御倉半島が見えます。
この十和田湖に突き出た御倉半島の御蔵山は、風水古典によると、風水で云う金星形をした案山(龍穴の前を守る砂や山)で「鼓」と呼ばれる「武」を象徴する形状をしています。
盾や矛、旗、馬、太鼓など、合戦の時に用いる道具の形をした山や地形は、激しく力強い気に溢れるとされます。御蔵山の左右180度には水が配され、これも「満堂水」という吉相です。
十和田神社のあるこの中山半島から見るこの美しい紺碧の湖はここでしか味わえないものかも・・・・
御倉半島の鼓の案山・御蔵山は、剛気を放っています。本来,剛気の性質としては、力強く勢いがあり、活力に富みます。
しかし、静かな湖面によって剛気の持つ刺々しさは打ち消され、心地よく感じます。
かつての聖地で、武の象徴である鼓を拝みながら「おより」を水に沈めることは、沈静化を意味し、波立った心が静かな揺れに変わり、気分が若返るような気持ちになります。
変動の激しい仕事の人、いろいろな思いを詰め込み過ぎて身動きが取れなくなった人などが、新しく生まれ変わる自分を想像するのにお勧めの場所です。
(風水パワースポット紀行著参考)
また梯子を登り、占場頂上を降り、
中山半島の西側、「乙女の像」付近の湖畔に出て
恵比須島を眺める。
十和田湖休屋を出て、454号線を走り、102号線に乗り御鼻部山(標高1010m)展望台から十和田湖を眺める。
向かって左が御倉半島で、右側が中山半島。
おまけ、更に湖にポッカリ浮かぶ御倉半島。
御倉半島の拡大写真。
昨日はお天気も良く最高の十和田湖一周日和でした
終わり
「魔の日本古代遺跡/武光誠・著」より
縄文人の魔の信仰は、全てのものに霊を感じるアニミズム、つまり精霊崇拝であったと言える。
弥生文化を伝えた人々は、日本列島に移住する前から水稲耕作を行っていた。
彼らは自然と共存しなくても食料を得られた。
縄文人が行った動物を捕りつくさないようにする気づかいは、弥生人には無縁であった。
しかも貯蔵出来る穀物が個人の財産と考えられるようになった為、水稲耕作と共に貧富の差が芽生え身分制度が作られてしまった。
富める者は貧しい者を自分の家に入れまいとして柵や垣根を作り、共有財産制をとり誰とでも分け隔てなく付きあえた縄文時代の社会の大らかさは失われてしまった。
弥生人のそのような在り方を区分の発想と呼ぼう。
弥生人も死者の霊の働きを重視していたが、彼らは全てのものに霊性を認めず、自分達の祖先を神として祀った。これを祖霊信仰という。
彼らは集落の全ての構成員の祖先達が神になり集落を守っていると考えた。
この発想は現代の行事にも受け継がれている。
正月は本来は年の初めに年神様と呼ばれる祖霊を家に迎える行事であった。
人々が年神様が下りて来る時の目標として門松を立て、鏡餅やおせち料理を供えて祖霊をもてなすのである。
弥生時代中期の開始期にあたる紀元前1世紀末に、江南から進んだ文化を伝えた移住者がいた。
彼らは祖霊信仰の段階にあった。江南の銅製品を魔除けとする発想を受け継いで、弥生時代中期に銅鏡や銅剣、銅矛、銅鐸を用いた大がかりな祀りが整えられている。
その大筋は大和朝廷に受け継がれた。
それ故、今の皇室でも弥生時代の祭器である鏡・剣・玉を三種の神器としている。
但し、祖霊信仰の段階の人々は魔を否定しなかった。
日本神話の中の大国主命の話は、弥生時代の人々の発想を残す素朴な内容である。
そこでは大国主命が皮を剥かれた白ウサギを助け、ネズミに命を救われたとされる。
このような動物との交流はアニミズムによる縄文人の信仰から来るものである。
また大国主命は少彦名命という小さな神に知恵を借りて国造りをしたとされる。少彦名命のような異形の神は魔であり、それは座敷童子と共通する性格を持つ。
大和朝廷の支配が広まる中で、このような魔の信仰を否定することによって発展して行ったと言える。
つまり日本の統一は魔を信じる人々を力で従え、神道に繋がる大和朝廷の信仰に改宗させることであった。
大和朝廷が生み出した信仰を首長霊信仰という。
それは首長と呼ばれる人々の指揮者は、死後に力のある神となって、後継者である首長やその支配下の人々を守るとする信仰である。
大和朝廷を治める大王は、始めは朝廷発祥の地のそばにある三輪山の神、大物主神が自分の首長霊だと唱えた。
のちに天照大神がそれに代わる。
中央や有力豪族の祖神もつくられ、次第に彼らを天照大神の家来神や王家の分家の神とする話も出来上がっていった。
このような首長霊信仰によって、民衆は豪族に従い、豪族達は大王に従う秩序がつくられていった。
そして出自を重んじる血統主義や首長霊信仰に合わない考えを支配者が否定する思想統制が始まった。
大王は首長霊の後援のもとに人々の生活を豊かにしなければならない。
そこで異文化の積極的受容を通じて国を富まそうとする発想が生じ、朝廷は鉄資源を求めて朝鮮半島へ進出し、鉄製農具が普及して行った。
首長霊信仰は、朝廷の支配層が自分達の全国支配を正当化する為につくり出したものかも知れない。
しかし奈良時代から平安時代の朝廷の記録は、大和朝廷が生まれたとき、天皇の祖先に日本を治めよと神が命じたと記している。
貴族層は朝廷が生まれた3世紀半ばに、首長霊がどこからか大王を守りにやって来たと真剣に信じていた。
これまで紹介してきた魔と異なる何らかの呪力を持つものが王家(皇室)を守っている。
つまり伊勢神宮の天照大神のおかげで、天皇家が今でも重んじ続けられているとする発想を完全には否定出来ない。
続く
アラハバキ神を祀っていると言われる青森県五所川原市市浦「洗磯崎神社」へ参拝してきました♪
洗磯崎神社は339号線沿いにあり 津軽半島の十三湖の北に位置しています。
洗磯崎神社を過ぎてもっと北に行くと権現崎には徐福が来たという伝説の里公園があります。
あいにくの雨でしたが、神社に着いたら雨が止み、写真を撮るのに良いタイミングでした♪神様のおかげでしょうか(^-^)
東に向かって眺むと拝殿からは三角型の山が見えましたが、靄(もや)山ではありません。
神社境内には立派な松の木がありました。まるで龍神様がそこに現れているのかと思いました(☆o☆)
向かって拝殿の右側斜め後ろには摂社があり、
摂社の左側には大小の石が並んでありました。
神社境内からは日本海、そして奥にはピラミッド型の靄(もや・152m)山が見えました♪
御祭神は
大己貴命、少彦名命。
神道については様々な捉え方がされている。今日の神社を信仰する人々を見れば、春や秋の祭りは氏子と呼ばれる地域単位で行われたり、神棚は家ごとに祀られる。
神道に拠る人々は神の存在を信じているが、神に頼ろうとはしない。「清く明るく正しく素直な赤き(熱血とか熱き)心」で生きる。
「正直の頭に神宿る」という諺は神道の立場から作られた。
神の恵みは一人々の行いに基づいて与えられる。
ところが魔の信仰はこれとは異なる。
正しい人でもそうでない人でも、定められた呪術を行えば、一定の効果がある。
それ故、神道の立場からは悪人が魔を使った場合、その魔が「鬼」になる。
ただ神道と魔の信仰が対立する訳ではない。
神道は間違いなく魔の信仰の系譜をひいている。
例えば岩木山(青森県にある山)の魔の信仰は、津軽(つがる)の領主・津軽氏の手によって神道に近いものに変えられて行ったと評価出来る。
このことは、岩木山がかつては鬼の住処だったとする伝説と深い関わりを持つ。
遥か昔、岩木山は「阿蘇辺(あそべ)の森」と呼ばれていた。
そこには魍魎精鬼(もうりょうせいき)が住み、麓の人々を悩ませていた。
その為、天皇が近江国の花輪という武士に鬼退治を命じた。
彼は「錫杖(しゃくじょう)の印と曼字(まんじ)の旗の紋を用いて攻めよ」という神託に従って鬼をくだした。
その時、鬼が山の神に仕え参拝者を守るので許して欲しいと願った。
その為、花輪は鬼を赤倉(岩木山神社が岩木山の表門にあたるのに対して、赤倉は裏門にあたり、古くから魔の集まる場所と考えられてきた。
弘前〈ひろさき〉藩関係者の文書には、岩木山中で光物を見たとか、また正体不明の発光体が赤倉の辺りに現れたとする記述がある)に住まわせ、そこから岩木山への登り道を作ったという。
この岩木山の縁起は、山の神と鬼とを別のものとしている点で新しい。
かつては山に住む魔が、ある時は災いを起こし、ある時は人々の生業を助けるとされた筈だ。
山の魔の多くは神になり、人々の味方につき、魔の社会のはみ出し者が鬼とされた。
しかし鬼は決して悪いものではない。
今でも赤倉の辺りに鬼の存在を信じる人がいる。
峰を登ったり、雨の夜に小径をうろつく怪しい者を見たという人々がいる。
その背丈は人間より多少高く、痩せて黒ずんでいる。
その姿を見て恐怖のあまり寝込んだ者もいるし、鬼と仲良くなって酒肴を与えその返礼に薪を大量にもらった者もいるという。
十和田湖休屋にある十和田神社境内から15分程山に登った所に占い場頂上があります。
境内の女坂の階段を下った脇に、
占い場大霊場の頂上へ続く階段があります。
占い場とは、南祖坊が入水し青龍権現に生まれ変わったとされる十和田湖随一の霊場(パワースポット)で、この場所は古くから、龍神信仰の霊験あらたかな昔からの修験道でも知られる場所であり、人智・人力の及ばない処を、御神力によって世の安泰を祈り、占う場所でありました
11月7日
岩場を超えると、あともう少しで頂上。
下から頂上付近を眺める
占い場頂上に着いたら、青龍大権現の神社があります
青龍大権現様の神社から葉の生い茂る夏と違って、今の時期は湖面がよく見えます
占い場頂上は紅葉が綺麗でした
青龍大権現の神社の脇には、約4~5mと約30mの78段の鉄製のハシゴが2つあり、この階段を降りると「占い場」があります
私はこのハシゴをまだ降りたことはないのですが、雨の日でも勇敢に降りて行く若い女性のお姿を何人か見かけました
鉄のハシゴはほぼ垂直になっています。
私はそこに立っているだけで足がすくみました
占い場頂上は紅葉がピークでした
占いのやり方は、神社でお出しする「おより」に願いを書き、湖面に浮かべ、沈むと願いが叶い、流されれば願いが叶わずといわれています