アンドレイ・タルコフスキーの「鏡」を見た。
彼の映画は眠りを誘うことで有名(?)なので、果たして最後まで居眠りせずに見通すことが出来るかどうか自信がなかったのだが、幸いにも眠らずに済んだ。
実は20年以上前に彼の“ノスタルジア”という映画を劇場に初めて見に行ったとき、不覚にも僕は眠ってしまったのだが、ふと目を覚ますと周りの観客が軒並み眠り込んでいたのを見て驚いた記憶がある(これホントの話)。
ところで僕は“自分はタルコフスキー好きである”と人に公言するのは実はかなり勇気のいる行為ではないかと思っている。なぜなら、“ではタルコフスキーの作品をどれでもいいから私にわかるように解説してください”といわれると突然全身の毛穴から汗が噴き出すような緊張に襲われて狼狽してしまうからである。タルコフスキーを「好きだ」と評する人は下手をすると、“したり顔で猪口才な口をきくインテリ気取りなやつ”といったような宜しくないイメージを相手に植え付けてしまう危険性を孕んでいるのだ。そのくらい、タルコフスキーを理解することは難しいのである。
僕の敬愛するスーザン・ソンタグによると「現代における“解釈”とは、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎない」のだそうだ。彼女に言わせると芸術作品とは「我々の神経を不安にする」ものであり、それを解釈することは、芸術をあたかも人の手におえるもの、気安いものとして飼いならそうとする行為に他ならないという。
ソンタグの言うことは至極尤もであると思う。たとえば現代の抽象絵画やポップアートなどはまさにその典型で、それらの作品群は頑なに解釈を拒絶しているのである。そして、いかにして説明的な部分を削ぎ落とし意味を内包させないか、に作者は心を砕くのである。であるから、そういう作品に対して、鑑賞者が作者の主張をいちいち忖度することほど下世話で無意味な話はないのである。
では、タルコフスキーの作品はどうか。
彼の作品も、説明性の排除という点においては観客にはきわめて不親切だ。しかも、時間の流れや、登場人物に対する一貫性がときに失われたり、意味づけの困難なランダムなイメージが随所に挿入されたりするため、観客は途中からストーリーを追跡することを放棄するか、あるいは一時的に棚上げにせざるを得なくなる。
したがって、タルコフスキー・ファンの多くは、解釈という行為からしばし距離を置き、霞のかかったどんよりとした草原の上をゆっくりとパンするカメラワークにしばし恍惚として身を任すといった類の鑑賞法に落ち着かざるを得ないのである(おかげで睡魔に襲われるのであるが。。)。
しかしその一方で、彼の作品にさまざまな直喩、隠喩、寓意が形をかえて現れていることは疑いようのない事実であって、彼がそれぞれのシーンにどのような意味を託したのかを推測することはタルコフスキーを理解する上では避けては通れない方法であるように思われる。
数あるタルコフスキー論の中で最も優れた論評とされているものの一つにピーターグリーンの「アンドレイ・タルコフスキー 映像の探求」がある。そのなかでグリーンは「タルコフスキーの映画は純粋に見て取れるがままのレベルに存在しているのではなく、さらなる意味作用のレベルに存在している」とし、「タルコフスキーの本当の詩は、凝縮されたイメージの中に存在し、時に比喩的あるいは連想的であり、また時には理念を強化して、意味の層を場面の中に、その長さを伸ばすことなく、凝集させる」と述べている。そして彼も最終的には「タルコフスキーの作品を分析し、解釈することを正当化せざるをえない」と言う。
タルコフスキーの作品を見たことのある人であれば、彼の作品の中に、いくつもの共通したモチーフが何度も繰り返し描かれていることに気が付くだろう。
水、火、犬、こぼれたミルク、空中浮遊などの超常現象etcがそれである。
そして、これらのモチーフは、彼のほとんどすべての映画のテーマとなっている、信仰、犠牲、破滅、不死性、償い、救済などに対する強力なメタファーをなすものである。
したがって、これらの形而上学的テーマの数々が、タルコフスキーの精神的思考と密接にかかわりあっているものであるとするならば、彼の精神の内面を解き明かすことなしに彼の作品を理解することは不可能であろう。そしてそれは、まるで我々凡人が小難しい哲学書を手に取ったときのように、ただ字面とにらめっこしているだけでは著者の真意を一向読み取ることが出来ないこととよく似ているのである。
ということで、肝心の「鏡」についてはまだ何一つ書いていないのだが、長くなってきたので、今回はこのへんでやめておく。次回気が向いたら「鏡」についてもう少し掘り下げてみたいと思う。
彼の映画は眠りを誘うことで有名(?)なので、果たして最後まで居眠りせずに見通すことが出来るかどうか自信がなかったのだが、幸いにも眠らずに済んだ。
実は20年以上前に彼の“ノスタルジア”という映画を劇場に初めて見に行ったとき、不覚にも僕は眠ってしまったのだが、ふと目を覚ますと周りの観客が軒並み眠り込んでいたのを見て驚いた記憶がある(これホントの話)。
ところで僕は“自分はタルコフスキー好きである”と人に公言するのは実はかなり勇気のいる行為ではないかと思っている。なぜなら、“ではタルコフスキーの作品をどれでもいいから私にわかるように解説してください”といわれると突然全身の毛穴から汗が噴き出すような緊張に襲われて狼狽してしまうからである。タルコフスキーを「好きだ」と評する人は下手をすると、“したり顔で猪口才な口をきくインテリ気取りなやつ”といったような宜しくないイメージを相手に植え付けてしまう危険性を孕んでいるのだ。そのくらい、タルコフスキーを理解することは難しいのである。
僕の敬愛するスーザン・ソンタグによると「現代における“解釈”とは、たいていの場合、芸術作品をあるがままに放っておきたがらない俗物根性にすぎない」のだそうだ。彼女に言わせると芸術作品とは「我々の神経を不安にする」ものであり、それを解釈することは、芸術をあたかも人の手におえるもの、気安いものとして飼いならそうとする行為に他ならないという。
ソンタグの言うことは至極尤もであると思う。たとえば現代の抽象絵画やポップアートなどはまさにその典型で、それらの作品群は頑なに解釈を拒絶しているのである。そして、いかにして説明的な部分を削ぎ落とし意味を内包させないか、に作者は心を砕くのである。であるから、そういう作品に対して、鑑賞者が作者の主張をいちいち忖度することほど下世話で無意味な話はないのである。
では、タルコフスキーの作品はどうか。
彼の作品も、説明性の排除という点においては観客にはきわめて不親切だ。しかも、時間の流れや、登場人物に対する一貫性がときに失われたり、意味づけの困難なランダムなイメージが随所に挿入されたりするため、観客は途中からストーリーを追跡することを放棄するか、あるいは一時的に棚上げにせざるを得なくなる。
したがって、タルコフスキー・ファンの多くは、解釈という行為からしばし距離を置き、霞のかかったどんよりとした草原の上をゆっくりとパンするカメラワークにしばし恍惚として身を任すといった類の鑑賞法に落ち着かざるを得ないのである(おかげで睡魔に襲われるのであるが。。)。
しかしその一方で、彼の作品にさまざまな直喩、隠喩、寓意が形をかえて現れていることは疑いようのない事実であって、彼がそれぞれのシーンにどのような意味を託したのかを推測することはタルコフスキーを理解する上では避けては通れない方法であるように思われる。
数あるタルコフスキー論の中で最も優れた論評とされているものの一つにピーターグリーンの「アンドレイ・タルコフスキー 映像の探求」がある。そのなかでグリーンは「タルコフスキーの映画は純粋に見て取れるがままのレベルに存在しているのではなく、さらなる意味作用のレベルに存在している」とし、「タルコフスキーの本当の詩は、凝縮されたイメージの中に存在し、時に比喩的あるいは連想的であり、また時には理念を強化して、意味の層を場面の中に、その長さを伸ばすことなく、凝集させる」と述べている。そして彼も最終的には「タルコフスキーの作品を分析し、解釈することを正当化せざるをえない」と言う。
タルコフスキーの作品を見たことのある人であれば、彼の作品の中に、いくつもの共通したモチーフが何度も繰り返し描かれていることに気が付くだろう。
水、火、犬、こぼれたミルク、空中浮遊などの超常現象etcがそれである。
そして、これらのモチーフは、彼のほとんどすべての映画のテーマとなっている、信仰、犠牲、破滅、不死性、償い、救済などに対する強力なメタファーをなすものである。
したがって、これらの形而上学的テーマの数々が、タルコフスキーの精神的思考と密接にかかわりあっているものであるとするならば、彼の精神の内面を解き明かすことなしに彼の作品を理解することは不可能であろう。そしてそれは、まるで我々凡人が小難しい哲学書を手に取ったときのように、ただ字面とにらめっこしているだけでは著者の真意を一向読み取ることが出来ないこととよく似ているのである。
ということで、肝心の「鏡」についてはまだ何一つ書いていないのだが、長くなってきたので、今回はこのへんでやめておく。次回気が向いたら「鏡」についてもう少し掘り下げてみたいと思う。
その昔、「赤ちゃんにヘビメタを聞かせると、泣き止む。」という実験をテレビで見たことがありましたが、その時専門家が「赤ちゃんには、不愉快なものから逃れるために、眠る能力がある。」と言っていたのを思い出しました。(≧∇≦)ぶぁっははは!実験では、本当に赤ちゃんはすやすやと寝始めました。
人間には誰しも「コントロールしたい」という欲求があると思います。それは本能的なもので、自分がコントロールすれば、その後に起きることが予測できるでしょう。これは、身を守るために必要だからです。知ってさえいれば、あることが起こった時、それへの対応が可能になります。そして、トライアル&エラーを重ねて、より洗練した対応策を学んでいきます。それは、赤ちゃんと同じで本能的なものだと思うのです。よって、「ストーリーがわからないもの、不可解なものを見ること」は、それだけでは決して危険なものではないのですが、人間は「知らないこと、解らないこと、予測のつかないこと」で不安になるのだと思うのです。理解不能なもの、もやもやするもの、不愉快なもの、それら全部、無意識の世界に葬るのです。そのために、寝てしまうのではないでしょうか。
映画を見ることには、2つの「同一視」が存在すると思うのです。まずは、自分の経験をストーリーに投影すること。もう1つは、登場人物を自分に置き換え、あたかも新しい経験をしたような気持ちになる、というもの。後者はファンタジーとも言います。私は、一般的には、どの人もその同一視があるから、映画を見て楽しめるのだと思うのですが、そういう点でいうと、タルコフスキーの映画は非常につらい。なぜなら、ストーリーの印象が薄く、同一視が激しく難しいから。よって、結果的に引きずられるのです。それは、話があっちこっちへ飛ぶ人に話を合わせるのが難しくて苦労することや、自分勝手でわがままな人に振りまわされることと大して変わらない。異なる点は、映画が現実でないということだけ。しかも、自分が選んで、その現実離れしたわがままな映像と立ち向かっているのですから、文句は言えません。
解説することを目的として、タルコフスキーを見るのであれば、そんなにも苦しくないはず。何とでも解釈できますし、自分の理性でストーリーを考えればいい。でも、一方的に見せられると、つらい。感動したい人、浄化されたい人、癒されたい人には、無理。眠る以外に方法はありませんね、きっと。
ノスタルジアって高校時代に見たような・・・。君は中学生だったでしょうか?君に薦められてみたような覚えが・・・・。寝たかどうかも覚えてないのは、よほど自分の経験とはかけ離れたものだったのでしょうね。
ありゃりゃ、書いてるうちに何を書いてるかわからなくなったわ。私は未だに形而上学の定義すらはっきりとわからない人なのでね。超基本的用語の解説をしてくださいな。
>>結果的に引きずられるのです
なるほど。引きずられるんですね。
確かにあの登場人物に対して同一視は100%無理そうな気がします。
>>赤ちゃんにヘビメタを聞かせると、泣き止む
むむむっ。そんなことが本当にあるのでしょうか?不思議です。さっそく、娘さんの夜泣きで困っている友人に教えてあげたいと思います。
>>無意識の世界に葬るのです。そのために、寝てしまうのではないでしょうか
なるほど。興味深いです。さすが心理学を修めた人の見方は鋭いですね。
ちなみに、僕はタルコフスキーの映画が眠くなるのは、あの映像が心地よいからだと思っていました。
タルコフスキーの映画には宗教的な楽曲が使われることが多くて、ノスタルジアでもマタイ受難曲が要所要所で使われています。
高校時代にあの荘厳な雰囲気が気に入ってリヒターのマタイ受難曲の5枚組CDというのを買ったのですが、、、なぜかあれを聴き出すといつも10分もしないうちに眠ってしまいます。やっぱり本能の部分では拒絶しているということなのでしょうか?
>>形而上学の定義すらはっきりとわからない
正確なところは小難しくて僕もよくわかりません。ていうか、辞書をいくつか引いてみたぐらいでは正直なんのこっちゃよくわからん言葉だと思います。それこそ、哲学とか心理学などをしっかり勉強したひとのほうが理解は深いのではないかと思うのですが。。ということで、僕としては『“実体”のないさまざまな概念についてあれこれ哲学する学問』と勝手に理解をしております。
以下参考になるかどうかわかりませんが、
ネット辞書とWikipediaをどうぞ。
http://so-net.dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%b7%c1%bc%a9%be%e5%b3%d8&type=jp&keyword=%b7%c1%bc%a9%be%e5%b3%d8&kind=jp
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6