元東京地検特捜部の検事でもあった郷原信郎氏の「検察の正義」を読む。
おもしろい。
郷原氏は、日本における「検察の正義」の限界をさまざまな例証を挙げて提示する。
まず興味深かったのは、日本とアメリカにおける事故の原因究明と責任追及の関係についての記載である
郷原氏によれば、日本の刑事司法は、「正義の実現」「実体的真実の追求」を主目的としており、たとえば、航空機事故であれ、鉄道事故であれ、業務上過失致死傷罪が成立する限り、ひたすら“誰が悪かったのか?”という刑事責任の追及に主眼が置かれるという。一方、アメリカの刑事司法の目的は、一定の制約のもとで行われる司法手続きの中で明らかにされる「司法上の認定事実」を確定することに主眼が置かれる。
アメリカでは単純な過失による事故では刑事責任の追及は原則として行われない。もちろん飲酒運転など、故意に近い重大な過失については責任が問われるが、基本的には、事故原因の究明と再発予防こそが社会的な最重要課題とされ、たとえば航空機事故などの場合、刑事責任の追及を恐れてパイロットが供述を拒むことのないように予めパイロットは刑事免責され、そのかわり、すべてを包み隠さず供述することが求められる。
つまり、アメリカでは、刑事処罰も何らかの社会的な価値実現のための手段と考えられている。一方、日本では、犯罪に該当する行為がある限り、刑事手続きのなかで実体的真実を明らかにして徹底的に処罰を行うことこそが「正義」であり、これを実現すること自体に絶対的な価値があると考えられている。
したがって、しばしば日本では、処罰にウエイトを置きすぎるあまり、事故原因に関する資料のほとんどを検察が握ってしまい、肝心の事故調査委員会には必要な資料が提供されないなどという由々しき問題が起きてしまうのだ。
さらに郷原氏は、検察がこのような処罰至上主義を改めることなく、近年の複雑な経済事件の捜査になりふり構わず突き進んでいった結果、(ライブドア事件の捜査等がその典型であるが)市場を大混乱に陥れ、挙句の果てに捜査のほとんどが不発に終わり、「大山鳴動して鼠一匹」などと世間から揶揄される間抜けな事態をもたらしたと舌鋒鋭く批判する。
昨今の政界絡みの西松建設に対する無理筋な捜査も、厚労省の村木元局長の部下たちに対する強引な取り調べも、結局のところ“一人の悪者を徹底的に罰することによってしか正義は達成されない”という旧態依然とした検察の独善が引き起こした“暴走”以外の何者でもないという気がする。
途中、自らの経歴に対する“自画自賛”的部分も多く、古巣に対する恨み節のように聞こえる箇所もあるにはあるものの、郷原氏の検察批判は論理的で非常に説得力がある。
ぜひ一度ご一読をおすすめしたい。
おもしろい。
郷原氏は、日本における「検察の正義」の限界をさまざまな例証を挙げて提示する。
まず興味深かったのは、日本とアメリカにおける事故の原因究明と責任追及の関係についての記載である
郷原氏によれば、日本の刑事司法は、「正義の実現」「実体的真実の追求」を主目的としており、たとえば、航空機事故であれ、鉄道事故であれ、業務上過失致死傷罪が成立する限り、ひたすら“誰が悪かったのか?”という刑事責任の追及に主眼が置かれるという。一方、アメリカの刑事司法の目的は、一定の制約のもとで行われる司法手続きの中で明らかにされる「司法上の認定事実」を確定することに主眼が置かれる。
アメリカでは単純な過失による事故では刑事責任の追及は原則として行われない。もちろん飲酒運転など、故意に近い重大な過失については責任が問われるが、基本的には、事故原因の究明と再発予防こそが社会的な最重要課題とされ、たとえば航空機事故などの場合、刑事責任の追及を恐れてパイロットが供述を拒むことのないように予めパイロットは刑事免責され、そのかわり、すべてを包み隠さず供述することが求められる。
つまり、アメリカでは、刑事処罰も何らかの社会的な価値実現のための手段と考えられている。一方、日本では、犯罪に該当する行為がある限り、刑事手続きのなかで実体的真実を明らかにして徹底的に処罰を行うことこそが「正義」であり、これを実現すること自体に絶対的な価値があると考えられている。
したがって、しばしば日本では、処罰にウエイトを置きすぎるあまり、事故原因に関する資料のほとんどを検察が握ってしまい、肝心の事故調査委員会には必要な資料が提供されないなどという由々しき問題が起きてしまうのだ。
さらに郷原氏は、検察がこのような処罰至上主義を改めることなく、近年の複雑な経済事件の捜査になりふり構わず突き進んでいった結果、(ライブドア事件の捜査等がその典型であるが)市場を大混乱に陥れ、挙句の果てに捜査のほとんどが不発に終わり、「大山鳴動して鼠一匹」などと世間から揶揄される間抜けな事態をもたらしたと舌鋒鋭く批判する。
昨今の政界絡みの西松建設に対する無理筋な捜査も、厚労省の村木元局長の部下たちに対する強引な取り調べも、結局のところ“一人の悪者を徹底的に罰することによってしか正義は達成されない”という旧態依然とした検察の独善が引き起こした“暴走”以外の何者でもないという気がする。
途中、自らの経歴に対する“自画自賛”的部分も多く、古巣に対する恨み節のように聞こえる箇所もあるにはあるものの、郷原氏の検察批判は論理的で非常に説得力がある。
ぜひ一度ご一読をおすすめしたい。
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