先週は結局更新できず。
一応は週に2回の更新を目標にしているのだがなかなかその余裕がない。
書く話題がないというのもあるが、なんとなく仕事にメリハリをつけられないまま、夜アパートに帰ってきてからもだらだらと仕事を続けてしまっているというのも理由の一つである。データ整理とか原稿書きとか文献読みといった、家にいてもできるような仕事の比重が大きくなっているせいもあるだろう。
どうせ家で仕事したってあんまりはかどらないということは分かっているのだから、もっと仕事にメリハリをつければいいのであるがなかなかそれが出来ないのだ。
ところで、アメリカで生活をするようになってからはや1年半が過ぎた。
というわけで、今日は日頃感じるアメリカと日本のものの考え方の違いについて思いつくままに書いてみることにする。
まず、感じることのひとつは(よく言われることではあるが)、アメリカ人は基本的に人の目を気にしないということである。
もちろんこれは程度の問題であるわけだが、少なくとも日本人のようにいつも人の顔色を気にしながら生きているという感じはしない。
以前誰かが日本の文化について“痒いところに手が届く文化”だと書いていたが、なるほどと思う。つまり、われわれ日本人は人からどう見られているかということに非常に敏感になっていて、周囲の人間の意思になるべく反しないように全体の意思を慮って行動しようとするところがある。そして、周りの人間にもそれを求めてしまう。したがって、周りの人間が自分の意志を慮って行動してくれることを当然だと思っているし、逆にそうでないと不愉快な気分になるのだ。
自分の背中が痒いことに誰かが気づいて「気が付きませんでした!失礼しました!」とばかりに背中を掻きにきてくれることを黙って待っているというところが我々にはありはしないだろうか。
第二次大戦中の軍部と昭和天皇との関係がこの日本人の特性を実によくあらわしていると思う。
昭和天皇は第二次大戦中、積極的にご自分の意見を述べられることをなさらなかったという。しかし、そのかわりときどき軍部の首脳たちに「本当にそれでよいのだな?」などと質問をしたという。軍部ではこの天皇の質問の意図を忖度し、言葉の奥にある天皇の御意志を想像して計画の立案等を行ったという。もしこれが本当だとすると、まことにファジーとしか言いようのない話であるが、しかしこのような曖昧なコミュニケーション感覚についてもなんとなく理解できてしまうのは僕が日本人だからなのかもしれない。
であるからして、アメリカで出会う日本人の多くが「まったくアメリカってのはなんていい加減で気の利かない国なんだ!!」と憤慨しているのも分からない話ではないのだが、そもそもアメリカ人にこの日本人的感覚を理解しろというほうが土台無理な話なのである。
かく言う僕もはじめのうちはアメリカ人の気の利かなさに毎日のようにぶっちぎれていた一人であるが、最近では、日本の濃密でネトーっとした人間関係よりも、むしろこのアメリカ的な、距離をおいたクールな人間関係のほうが気楽でいいなーと感じられるようにもなってきた。
もちろんこのような濃密な人間関係の形成は、日本という国の持つ特殊性と決して無縁ではないだろう。日本は単一民族国家だと言われているが、それ故我々日本人は皆が同じ意識と同じ感覚を共有しているはずだと勝手に思い込んでいるのではなかろうか。一億の国民皆が同じ共通前提に乗っかっているという妄想(?)が我々の中に存在しているからこそ、このような、言葉を介さない“以心伝心”的な曖昧なコミュニケーションが生まれたのではないだろうか(そもそも“我々日本人”などという表現を何の疑問もなく用いていること自体が共通前提の存在を受け入れているということなのだが、、)。
その点、共通前提など端から存在しないアメリカにおいて、人々のコミュニケーション能力が高いというのは決して理解できない話ではないという気がする。
“痒いところに手が届く文化”と“背中ぐらい自分で掻け!という文化”
どっちが自分の性にあっているだろうか。
一応は週に2回の更新を目標にしているのだがなかなかその余裕がない。
書く話題がないというのもあるが、なんとなく仕事にメリハリをつけられないまま、夜アパートに帰ってきてからもだらだらと仕事を続けてしまっているというのも理由の一つである。データ整理とか原稿書きとか文献読みといった、家にいてもできるような仕事の比重が大きくなっているせいもあるだろう。
どうせ家で仕事したってあんまりはかどらないということは分かっているのだから、もっと仕事にメリハリをつければいいのであるがなかなかそれが出来ないのだ。
ところで、アメリカで生活をするようになってからはや1年半が過ぎた。
というわけで、今日は日頃感じるアメリカと日本のものの考え方の違いについて思いつくままに書いてみることにする。
まず、感じることのひとつは(よく言われることではあるが)、アメリカ人は基本的に人の目を気にしないということである。
もちろんこれは程度の問題であるわけだが、少なくとも日本人のようにいつも人の顔色を気にしながら生きているという感じはしない。
以前誰かが日本の文化について“痒いところに手が届く文化”だと書いていたが、なるほどと思う。つまり、われわれ日本人は人からどう見られているかということに非常に敏感になっていて、周囲の人間の意思になるべく反しないように全体の意思を慮って行動しようとするところがある。そして、周りの人間にもそれを求めてしまう。したがって、周りの人間が自分の意志を慮って行動してくれることを当然だと思っているし、逆にそうでないと不愉快な気分になるのだ。
自分の背中が痒いことに誰かが気づいて「気が付きませんでした!失礼しました!」とばかりに背中を掻きにきてくれることを黙って待っているというところが我々にはありはしないだろうか。
第二次大戦中の軍部と昭和天皇との関係がこの日本人の特性を実によくあらわしていると思う。
昭和天皇は第二次大戦中、積極的にご自分の意見を述べられることをなさらなかったという。しかし、そのかわりときどき軍部の首脳たちに「本当にそれでよいのだな?」などと質問をしたという。軍部ではこの天皇の質問の意図を忖度し、言葉の奥にある天皇の御意志を想像して計画の立案等を行ったという。もしこれが本当だとすると、まことにファジーとしか言いようのない話であるが、しかしこのような曖昧なコミュニケーション感覚についてもなんとなく理解できてしまうのは僕が日本人だからなのかもしれない。
であるからして、アメリカで出会う日本人の多くが「まったくアメリカってのはなんていい加減で気の利かない国なんだ!!」と憤慨しているのも分からない話ではないのだが、そもそもアメリカ人にこの日本人的感覚を理解しろというほうが土台無理な話なのである。
かく言う僕もはじめのうちはアメリカ人の気の利かなさに毎日のようにぶっちぎれていた一人であるが、最近では、日本の濃密でネトーっとした人間関係よりも、むしろこのアメリカ的な、距離をおいたクールな人間関係のほうが気楽でいいなーと感じられるようにもなってきた。
もちろんこのような濃密な人間関係の形成は、日本という国の持つ特殊性と決して無縁ではないだろう。日本は単一民族国家だと言われているが、それ故我々日本人は皆が同じ意識と同じ感覚を共有しているはずだと勝手に思い込んでいるのではなかろうか。一億の国民皆が同じ共通前提に乗っかっているという妄想(?)が我々の中に存在しているからこそ、このような、言葉を介さない“以心伝心”的な曖昧なコミュニケーションが生まれたのではないだろうか(そもそも“我々日本人”などという表現を何の疑問もなく用いていること自体が共通前提の存在を受け入れているということなのだが、、)。
その点、共通前提など端から存在しないアメリカにおいて、人々のコミュニケーション能力が高いというのは決して理解できない話ではないという気がする。
“痒いところに手が届く文化”と“背中ぐらい自分で掻け!という文化”
どっちが自分の性にあっているだろうか。
グローバル化したこの世の中、
バランスよく両方もてる人こそが、
本当の国際人と呼ばれるんでしょうね。
ちゃんと人と関係を築いていたら、
どんな文化の人とだって
「以心伝心」的関係は築けると思います。
でも、それが「当然」になって
胡坐をかくとき、その関係は壊れていくんだと思います。
同じ国に産まれたから・・・というのは
ただの「ぐうたら」の言うことなんじゃないのかなと思ったり・・・・。
私は家と図書館とカフェを行ったりきたりして
勉強しています・・・とほほ・・・
こんにちは。
コメントありがとうございます。
そうですね。あぐらをかいたらいかんというのはそのとおりだと思いますね。
誰も背中を掻きに来ないからといって怒り出すようではまだまだ修行が足りませんな。
しっかりと地に足のついたコミュニケーション能力を身に付けたいものです。
ということで、お互い大変でしょうが、がんばりましょう。
(しかし、話を聞く限りダイアンさんのほうがずっと大変そうな気がしますが、、)
最近職場などでこちらの意志が伝わらないというケースがしばしば発生し「確実に自分の意図を伝える」ことに腐心しています。以心伝心にはその前提となる共通の認識なり情報があるわけで、最近の日本は「認識や情報の共有」の度合いが希薄になってきたと思います。
このように最近では以心伝心を当てにしてかえって痛い目にあっています。それは立場立場で見方や利害が異なってきますから、以心伝心が通用しないのは当たり前なのかもしれません。
お互いの意志をきちんと伝えるためにも日ごろからコミュニケーションが必要だと感じる今日この頃です。これは海外でも日本でも同じなのだと思います。
海外の生活は意志の疎通が輪を掛けてままならないので精神衛生上よくないと思います(私も少し経験があります)が、その苦労は日本に帰ってきて役立つと思います。
いつもコメントありがとうございます。
そうですか、最近は意思を伝えるのに苦労しているのですね。
そういえば、最近の若者はコミュニケーション能力が低下しているなどという論調を新聞雑誌などでときどき見かけることがありますが、そのことと多少関係があるのでしょうか。
それとも、単に昔ながらの以心伝心が通用しなくなって、より欧米的コミュニケーションに近づきつつあると評価すべきなんでしょうかね。
それにしても、知らないうちに世間はどんどん変わっていきますなー、、
なんて、自分も知らないうちに若者のことを愚痴るようないい年になったってことでしょうか???
以心伝心が通用しなくなったのは若者だけではないのです。
実際のところ私の場合はほとんどの場合、私よりも年配の人とのコミュニケーションに苦労しています。
つまり、社会を取り巻く環境がここ数年で急激に変わり、いわゆる「パラダイム・シフト」が起きていて、意志の疎通ができないのはこのパラダイムシフトについていけず、昔の価値観に固執している世代というのが実情です。
若い世代はコミュニケーション能力の低下、熟年世代はパラダイムシフトの結果としてのさまざまなリテラシーの欠如。以心伝心が通用する範囲が狭まってきています。
ちなみに、それと関係するかどうかはわかりませんが、思い出した話があります。
アメリカ文学にはNew Ageとよばれるジャンルがあります。いわゆる“古きよきアメリカの価値”に反逆する世代の書いた文学ということなのですが、最近このNewAgeの価値観に反逆する若い世代が増えているといいます。
親が右なら子は左、親が左なら子は右とでもいいましょうか。日本でも、特に若い世代で保守傾向が強まっているように感じますが、このNew Age論争と似てるなーとも思います。
人に言わせると、こうやって世代間闘争は繰り返されてゆくものだそうですが、この“以心伝心”問題にもそのような要素は多少なりとも含まれているのでしょうか?
まあ、、でも、パラダイムシフトということになれば世代間闘争とはあんまり関係ないかもしれませんね。
今の30後半~40前半の年代って。
古代エジプトの古文書にも「いまどきの若いもんは!」と
書いてあるそうです。世代間の確執は永遠不滅・・・
それが、社会が変化する速度が急激に早くなることで
世代間のギャップが生じやすくなる・・・?
いつの時代も世代間の争いというのは存在していたのでしょうね。面白いものです。
歴史の大きな流れの中で当然生じてくるであろう世代間の差異というものもあるでしょうが、高々一世代の確執の原因など実は意外にたいしたものではないのかもしれませんね。