かつて見た共同体の姿、その時にはあった風景、店と客が心を通わせたり、近所の子供を自分たちの子供のようにかわいがったり、今飽食の時代にあっても、お腹いっぱい食べることの満足が、あのテレビ画面から伝わってくる、そんな番組が「オモウマい店」なんだろうかと思う。
そして、消費者の気持ちを考える、つまり需要をみるという現代の規範的意識からの逸脱が見える。それは3で取り上げた森川すいめい著の話に繋がる。「どうしてこんなに安い?こんなに大盛り?」という疑問には、お客さんのためという風に見えてしまう。しかし、店がやりたいからという点を見落としてはいけない。
自分がそうやりたいから、そういう商売をしたいから、大盛り食えなくてきつい顔しているのが面白いから、こういうやり方しかできないから・・・。実は客のことを気遣いながら、自分のしたいようにする。それは森川さんの本に出てくる親切な島の人が、親切なことをすると、そっけなくその場を離れてしまう、そんな風景と似ている。
そうすると、そりゃあ儲けは少ないかもしれないが、自分のやりたいようにやっているなら、なんだか自由である。僕たちは、このような自由に憧れる。なんせ規律だ、コンプライアンスだ、人の心に気遣いをという社会が我々の姿だからだ。オモウマい店は、そういうところで自由な感じが見えてしまう。
さらに逸脱する面があるのだが、それはカーニバル的な悦びだ。なんといっても大盛りであること。激安であることなどである。これは社会常識からの逸脱である。僕たちは、こういうもの悦びを感じてしまう。食という観点からすると、フードファイターものも同様だ。
出てくるお店の人たちが、やはり社会常識から逸脱する人々がいる。客に命令したりするオヤジ。「昔はいたなあ」などと思い出させる。食べ方を強制するオヤジ。釣りを多く渡すおばちゃん。正当な料金を払おうとすると「しつこい」と怒ったりする。でもやさしい。こんな感じだろうか。
でも皆勤勉だ。一生懸命働いている。あるいは大変な思いをして、我慢しているシーンが出てくる。そこで耐える姿が、頑張っている姿であるにもかかわらず、なんだかおかしい。そういう人間がいる。たまに勤勉とはいえないので、という人も出てくる。社会ってういうものだったよなと。
そして、テレビの撮り方としても逸脱するシーンが出てくる。スタッフがいつの間にか働いている。やりたいことができず我慢しているお店の人を撮っている。そりゃ、我慢できなくなり、動き出すところが期待される。
通常テレビ編集を逸脱してしまうシーンが多々出てくる。僕だけではないだろうが、「テレビ的」という考えがテレビを支配していることに飽きてきている。それでも「テレビ的」に動こうとするタレントたちや、一般人。この番組は逸脱していく。
テレビ番組は多様に見えて、決まったパターンに終始ている。それを逸脱する部分があるのだ。
そして、最大の面白さはやはり僕たちの心に残っている共同体の姿の想像的再現である。