死刑反対の真の意味?それについて少しだけ。
たまたまテレビをつけていたら、『相棒』の再放送が流れていた。杉下右京(水谷豊)らに大学時代の恩師が問題を出す。正しく答えられないと、人が死ぬと。その問題は「どうして人を殺していけないのか、その理由を述べよ」という感じであった。
哲学的に幾つかの答えが出てくると思うが、その1つをあげてみたい。もう20年以上経つが、次の本がある。
池田晶子/陸田真志『死と生きる 獄中哲学対話』新潮社1999
陸田は殺人を行い死刑になった人物だ。ネットで検索すれば、簡単に出てくるだろう。池田晶子は『14歳からの哲学』でよく知られた哲学者というか作家というか、そういう考えることを仕事に、生き方にしていた人物だ。早くガンで亡くなった。
この本は陸田が獄中から池田に手紙を出し、それに池田が応える往復書簡を書籍にしたものである。獄中、悪事に染まっていた陸田は殺人が悪であると認識する。その認識のやりとりを、池田が教師のように問うのである。
陸田は殺人がどのような罪か、以下のように遂には理解に至る。
「私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪ったことより、彼らが彼ら自身の真実に気づき得た可能性を奪ったことにあります。」
思考の旅の果てに届く理解である。僕たちはこのような思考をすることなく生きている。陸田はか彼自身のどうしようもない人間性の只中考えてしまい、自分の心の内奥と対話する。
そして人間は真理に気づく存在である、そう知ってしまう。そして、真理を内在化している存在である。どうしても変わらない事実、つまりこれが真理である。ただそれを忘却しているが、そのことを思い出すことが、人生の意味である。プラトンの想起説はこういう考えであるから、そういう境地に届いてしまったのだろうか。
人を殺してはいけない、その理由は人が真実に気づく機会を奪うことにある。よって死刑とは、その機会を奪う制度である。
ちなみに池田が死刑制度に反対するわけではないが、早く死刑になりたいという陸田の希望を、同様の理由であと伸ばしするよう仕向けている。
僕はこのような哲学が人に理解してもらえるとは思っていない。それでも、そういう理由がなんなのか、自分の心に語り語ることに意味があると思っている。
そういえば、真理を心はわかっているという話をこのブログでもしたことがあった。ブログ「Let it beと忠恕」(https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/25c558e21c63ba591997c0432a82a882)。
誰かに届くだろうか。