以前このブログで「はじめて入院した」という話をさせてもらった。僕は心不全患者である。いわゆるコロナで強調される基礎疾患持ちになる。
心不全は完治することがないので、病院で経過観察をしてもらうことになっている。身体に負荷のかかる作業や運動をすると、心臓に負担がかかるのだろう。なんとなく胸に違和感が生じる。とはいえ、日常生活に問題はない。
さて昨日通院した。その時の出来事から。
病院の玄関に入ると、職員が検温を行っている。そこに少しばかり行列ができているのだ。僕はソーシャル・ディスタンスを保ちながら、列に並んだ。ただ他の方達はくっついて並んでいる。
すぐに僕の検温の番だ。職員に思わず「並んでいる時、ソーシャル・ディスタンス取らなくていいのですか?」と声をかけてしまった。職員は「はっ」としたのか、「そうですよね。考えてませんでした」と応えてきた。すぐに機械で受付して、検査に向かったので、その後検温の列がどうなったかは知らない。帰りはもう人も少なく、職員も手持ちぶさたにしていた。
僕は心の中で「スーパーだってソーシャル・ディスタンスに気をつけているのに、あろうことか病院が気にしていないのは、大丈夫だろうか」などと呟いていた。まあ長い呟きだ。
ここで考えたのは社会学者ブルデューのハビトゥスである。ハビトゥスは普通に訳したら慣習程度だろう。ブルデューのこの概念による指摘は、いかに我々が慣習に縛られ、それが人々の実践に制約と限界を与えるのかということである。だからハビトゥスは構造、無意識でもある。
それゆえ行列を作るという実践はハビトゥスになっているので、コロナでその実践を変えなければならないとしても、無意識的にその実践を繰りかえす。ここでは行列を作るとき、近づいて並ぶことである。コロナ禍であれば三密回避であるが、その考えを適応するには実際の社会的制約がかかる状態にならないと気づかないのだ。
よって、病院というコロナ対策を最前線で実践しなければならない場所において、それを意識する強い契機がないとできないのであろう。このような状況をみれば、新しい状況に対応して実践を変えるのは難しいのだが、同時に新しい状況に応じて実践を変える融通性に欠けているのが、ここで見られる文化なのであろう。
だから首相も会食に行くハビトゥスを変えられないし、我々もクリスマスや忘年会で集まるハビトゥスを変えられないのかもしれない。ただハビトゥスは絶対ではない。人々の実践が構造に返って行くので、元の構造を変容させるものでもある。
コロナ禍で首相や政府、病院や保健機関が実践を変えるのは重要なのだとつくづく思ったりした。