今回は本当に頭の中に巡ってきたことを、なんとはなしに綴っていこうと思います。
一昔前、人々は人生を旅に喩えました。実は喩えではなく、事実であって、実践であったのだと思います。
その意味を考える前に、現在の旅、というよりは旅行、よりだだしくは観光(ツーリズム)の意味を考えておきますと、まさに旅ではなく観光になったということです。
観光というのは、メディア(テレビやネットなど)で紹介されたり、人々の評判になっている場所を消費することです。消費なのです。
消費とは、人々が社会生活している中で組み込まれた欲望を満たすために財やサービスを消耗することです。その反対が、当たり前ですが生産。ですから、観光は社会的に生産された観光における財やサービスを味わうことです。ですから、あえて消費するために作られたものを消費することです。それが現在の経済になっているわけですし、社会生活を構築しているわけです。
それらを味わうことが、人々の歓びとして観念化されているのです。観念化というのが、先に指摘した「人々が社会生活している中で組み込まれた」という意味です。つまり自然なことではないのです。先に人間生活があって、その中に旅が組み込まれていたのではなくて、人間生活にあえて組み込んでいったのです。資本の増殖運動でしょうか。これについてはいつか。
今では大学に観光学部があるぐらいですから、観光の財やサービスを生産し、その消費が重要になっていることは、当たり前になっていますが、旅行にはそういう観光的側面はありました。僕が大学生の頃には観光学部は当然なかったのですから、時代が変わったというだけではなく、学問が経済活動に合わせたものになっていること示しています。経済学部や商学部、経営学部でよかったのですから。
色々ブログなど見ていると、まさに観光を消費している様子が描かれています。世界中、そういうものなわけですが、その観光の中に、社会的与えられた欲望を満たすためではない、そういう旅行の姿を感じることがあります。
そういうブログを見ると、ホッとします。考えて見てください。名所旧跡やパワースポット、そこで景観やグルメを観光し続けることが、消費し続けることが、あたかも人生の歓びなのか。観光地を消費することが、老後の人生の歓びだとしたら、人生とは消費することです。
かつて旅は人生であったとは、どういうことだったのでしょう。かつての旅と現在の旅行と観光は違うと思います。そこで松尾芭蕉から接近してみようかと思います。