最近の社会学では、結婚について、人々があまりに多くのことを求めすぎているのではないかと考えるということもあります。
子育て、介護、癒し、性愛(あるいは恋愛)等など、これら多くのものを求め、それらを獲得できるか否かを予測し、その困難さの前に結婚をためらうという社会的心理が蔓延していること。これらが未婚化、晩婚化の大きな要因であると思われます。
それに加えて、自由であることが、選択を複雑化し、選択することができない状況を招くという要因もあると思われます。もちろん経済的な問題もあるでしょう。
おそらく、結婚に対する期待値が高すぎることが、結婚したくてもできない人を増やしているわけです。たとえば、昔は会ったこともない人と結婚することが多々ありましたが、結婚に対して自ら選択し、結婚自体に高い理想/期待をもっていては、そのような結婚は不可能です。
もう20年以上経ちますが、さんまの「からくりTV」という番組で、50年付き添った夫婦がビデオレターのコーナーに出演しました。
さんまが「おばあちゃん、おじいちゃんのどこが好き?」と聞いたところ、
おばあちゃん「好きじゃない」と答えました。
さんま「50年も一緒で、お孫さんもいるから、なんかあるでしょう?」
おばあちゃん「50年1度も好きになったことはない。嫌いだ」
さんま「どうして結婚しているの?」
おばあちゃん「よくわかんねえ」
こんなやり取りがありました。で、スタジオは笑いに包まれたのでした。
しかしながら、50年もの間結婚生活を続けてきて、子供にも恵まれ、孫にも恵まれているのです。遠藤周作が『結婚』の中で「夫婦が一生、結ばれていくことに比べれば、それらの妥協もウソも不純ではない」と登場人物に言わせています。
そのセリフを思い出さずには入られません。このおばあちゃんは50年結ばれているわけですから、おじいちゃんのことが好きではないとしても、「それらの妥協もウソも不純ではない」ことになりそうです。
この夫婦は幸せではないでしょうか。当然幸せでしょう。この老夫婦の50年の歴史に価値がないとは誰も言えないはずです。仮におじいちゃんが先に逝ってしまったとします。おばちゃんは、おじいちゃんが死んで“Happy”と思うわけがありません。2人の歴史に想いを馳せ、おじいちゃんを悼むでしょう。
おばあちゃんは何を結婚に求め手に入れたのでしょう。明確に言語化できないかもしれませんが、結婚それ自体を手に入れていたとは考えられないでしょうか。
(つづく)