少し前のブログで、生物学者の池田清彦先生を尊敬するとしたのだが、彼はリバタリアン。どうして、僕がこのような思いを抱えるのか、少し考えて見た。
まず池田先生の考えが端的に表れているtwitterから。
他人の恣意性の権利を侵害しない限り、人は何をしても自由である。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる。殺人は他人の恣意性の権利を侵害しますからNGです。
— 池田清彦 (@IkedaKiyohiko) July 26, 2020
この他者の恣意性の権利を侵害しない限り、人間はとにかく自由。恣意性の権利は能動的であるという前提条件が語られている。
僕がこの考えで思い出したのが、ヘーゲルの法に対する考え方、つまりは法哲学である。法と言っているが実際は僕たちが思い浮かべる法ではない。法はRecht、つまり正義や権利を包含する概念である。これが歴史のうちに絶対精神なるものが実現していくという壮大な哲学である。
ここでヘーゲルは法を抽象法、道徳、倫理の三段階に分けているのだが、池田先生が言う恣意性の権利とは、おそらく抽象法に相当するのではないかと考えられる。抽象法とは即時的かつ対自的な自由への意志を持つ法Rechtであるから、もっとも抽象的な自由の法である。
その謂いは、人間を抽象的な人として尊敬し、他人の人格を損なわないことの要求である。人間を抽象的な人とあえてみなす事によって、民族や性別などの差異を一旦無効にする事によって、ただ人であるということは、人であるがゆえに尊敬するという意味である。
あの人物がなにをしたかどうかということは無効にして、ただ人としてみれば、確かに抽象的な人という観念になり、具体的に生きる人間から離れてしまうとはいえ、その人間は自由に生きる存在である、という事になる。これがリベラリズムである。ゆえにリバタリアン(自由至上主義者)。
しかしながら、抽象的な人という観念論的操作を加えているので、そこに具体性を加えていくと、法Rechtは抽象法にとどまらず、道徳に、さらにヘーゲルが位置付ける倫理にまで昇華する。倫理になれば、神のようなもののだろう。
友人に言わせれば、僕は時に保守思想的なことを言うことがあるらしい。しかしながら、自身ではリベラルな人間であると思っている。このヘーゲルの抽象法はまさにリベラルな法、つまり権利や正義の核のようなものと考えられる。この権利や正義は道徳や倫理によって洗練されていき、客観的精神のようになる。
そこで他者の恣意性の権利を侵害しない限り、恣意性の権利は能動的(つまり自由)であるとの池田先生の言葉に勝手に共鳴するのである。
そう、ジャニー喜多川が他者の恣意性の権利を侵害しまくっている、こういう風に現実を理解する強い手段となるでしょ。