Drマサ非公認ブログ

煩悩と悟り、矛盾

 鈴木大拙がどこかでこんなことを言っていたのを読んだことがある。

「私は悟りを開いたことにしています」こんな感じだったように思う。悟りを開くということは、煩悩から解放されたということだ。

 僕はこの大拙の言葉を時に思い返す。別に僕が悟りを開くなど遠すぎることでしかない。煩悩まみれだ。思い出すのは親鸞、悪人正機説である。

 

 善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや

 

 人間が生きることには、必ず煩悩を満足させる行為が付随する。今日妻が手作り餃子を作ってくれた。おいしかった。二人は笑顔で食事を楽しむ。当たり前の光景だ。幸せなことだ。

 しかし、調理した豚肉は生命である。野菜もまた然り。ちょうど3.11の頃、公共広告機構の「こだまでしょうか」というCMを覚えている方もいるのではないかと思う。その「こだまでしょうか」という詩の作者は、金子みすゞである。彼女の詩に食べられる魚に対して「ほんとうに魚はかわいそう」という一節がある。

 食が生命を犠牲にすることを、あまりに繊細に甘受しているのだ。日本人は食事をする時「いただきます」と言う。生命を「いただく」という意味が内包されている。生きることには、このように悪が内包されている、そのことを自覚し生きることが悪人正機説であろう。

 悪人というのは犯罪者であるとか、人殺しであるとかいうことではない。生きていることが、すなわち悪人なのである。おそらくだが、キリスト教の原罪と通底しているのではないかと想像している。

 親鸞はこの自覚を問うている。それでも食事したり、煩悩である行為を人間はせざるを得ない。だから煩悩を人間は必ず背負う以外生きようがない。それを親鸞の弟子唯円が『歎異抄』に記した。「歎」は「嘆く」ことであるから、煩悩にまみれて生きるしかないことに「嘆く」のである。しかしながら「嘆く」のであるから、煩悩を肯定しているわけではない。

 このような人間の矛盾した存在様態を知ることは知である。多分仏教では「●●知」などとされるのであろうが、僕はその知識がないので、とりあえず「●●」にしておく。

 親鸞の言う悪人とは、すべからく人間は悪人である。だから善人がいないのである。仮に完全に脱した者が悟りを開いていることが想定できるが、それゆえにその不可能性を自覚しながらも、悟りを無化しないために、大拙はあのような言い回しをしたのだろう。

 一方に悟りという不可能な理想がある。もう一方に煩悩まみれ、肥大化した欲望がある。「おいしい」という幸せに、同時に大地の搾取。人間は矛盾した存在である。そう思う。

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