松坂桃李とシム・ウンギョン主演の『新聞記者』が公開になっている。一応映画であるからエンターテイメント化していることになっているとは思うが、現実の日本のメディアと政治の関わりが描かれているそうだ。
官邸によって東京新聞の望月衣塑子記者の質問制限の問題、政治におけるメディアの抱え込みのありように批判を加えるような内容のようである。
トランプが「フェイク・ニュース」と名付けつつ、政府を批判するメディアのイメージを落とし込もうとしたのはよく知られるところだ。良くも悪くも直裁的なので、共和党支持者には受けがいいのかも知れない。また、メディア批判としてもわかりやすいので、穴だらけなところがトランプらしい。
日本の場合は、そのように直裁的ではなく、あたかも政府が言うことのほうが真っ当な感じを受けるかのような答弁を行う。それが官邸側の態度である。官邸がこのような態度を当然こととして、それを繰り返すことで空気と化してしまうかのようで、それを国民側が空気として受容するので、そこにあるジャーナリズムの問題として浮上しづらいように思う。望月記者はあの記者クラブの中にあって、そこを問題にしたのだから至極真っ当だと思う。
そもそも官邸が何で記者会見を行うのか、その意義が知られていないように思うので、言及しておこうと思う。
もちろん、政府からの“お言葉”を頂戴することではない。政府が国民に発表する場所ではあるが、それが重要な役割ではない。あくまで国民からの疑問に答える場所であり、政府が説明する場所として存在する。
もちろん国民が直接質問するわけにはいかない。国民は自分の生活があるし、得意不得意もあるだろう。そこで政府が何を行なっているのか、何をしようとしているのかとの疑問を投げかけるのが、専門家としてのジャーナリストの役割である。一人のジャーナリストが国民全てを代表するなどということはもちろんありえない。ただそのジャーナリストが抱いた疑問を当然国民の何がしかは抱いている。そう想定しなければならない。
そこでジャーナリストの背後に国民を見て、政府は国民に向かって、説明責任を果たす場所があの記者会見という場所の最初の意義である。そもそも記者クラブの出自はそういう問題意識から発し、そこで国会内に作られたものだ。帝国議会の頃だ。それが今はその真意からどれだけ逸脱しているのかといつも疑問に思っている。
だから、官房長官は質問の背後に国民を見て、丁寧に真摯に疑問に答えなければならない。知る権利がここにある。民主主義がここにある(ちなみに民主主義にも問題はあるとは思っている)。僕たちは知らなければ、評価もできないし判断することもできない。
映画はどう描いているのだろうか?