ドーナツの穴は真理に関わることですから、それは個人がそれぞれ希求するものです。そしてソクラテスのように対話で求めるものです。ですから、真理が決定されない以上、対話は続きます。対話です。討論ではありませんし、自己主張ではありません。ですから、国家ごときは後ろに下がっていなさい。
そういうことですが、なんだか真理を巡って、争います。例えば、夫婦別姓の問題。何が正しいのかは、簡単に決められません。どういう問題があるのかを知るために議論するのです。そこで問題が浮上します。それをお互いが、みんなで確認します。
それでも何が正義か決められません。そこで寛容が必要になるのです。近代社会になって、寛容は発見されます。保守もリベラルも寛容を認めないと、うまく社会がやっていけないので、寛容にしておくのです。それでも社会自体はそれほど困ることがありません。そういう程度の妥協をするのです。いい加減で結構やっていけるわけです。いい加減は「良い加減」「好い加減」ですから。
僕が子供の頃は、ナショナリズムという言葉は肯定的な言葉ではありませんでした。すぐ右翼だとなって、なんだか恐ろしい感じでした。それは当然第二次世界対戦で負けたからです。
近代が人々に要求したのは、すでに述べていますが、戦争の時国民国家のために死ねるかどうかです。そこで国民が成立するからです。その国民で何が起きたか、ヒトラーが現れファシズムが吹き荒れました。
日本では、国民総動員で多くの国民が死にました。沖縄では市井の人さえ被害に遭い、東京以下空襲され、原爆も2発、敗戦します。アメリカ他連合国に占領されます。国連では、いまだに敵国条項です。
いくらなんでも酷い結果です。国民が国家のために死ぬことを植え付けると、こんなことが起きるのです。ですから、強いナショナリズムはダメなんです。その匂いが僕の子供の頃はありました。ドイツは反省したのです。ですから安易な国家主義は否定するのです。
さて今の日本は?
麻生という人がいて、こんなことを言っていました。「ワイマール憲法がいつの間にかかわって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないうちに。それを学んだらいい」。
高市という人がいて、ネオナチの人と仲良くツーショット。ヒトラーの選挙賛美の本に推薦文。
反省なんかありゃしません。こうい人たち。