そもそもジャーナリズの原則がわからなければ、その報道のジャーナリズムのありようを判断することができない。
そこで、欧米の大学院でジャーナリズムを専攻する者なら必ず学ぶジャーナリズムの原則を取り上げておこう。ちなみに欧米では、この原則を知らない者はジャーナリストとして認められない。また、プロのジャーナリストとして自らの仕事に誇りを持つ者なら、単なるスキャンダリズムにならないように、かつコマーシャリズムにならないように、この原則を手放してはいけないと考えている。
詳細は省くが、その本はビル・コヴァッチ/トム・ローゼンスティール(加藤岳文/斉藤邦泰訳)『ジャーナリズムの本質』日本経済評論社2002年である。
ジャーナリズムの目的は人々が自由であり、自ら統治するのに必要な情報を提供することにあるが、その任務を果たす9項目がある。通常正確性、独立性、不偏不党性と言われるが、不十分でもある。
ここではテーマに則して3項目だけ取り上げることにする。もちろん関心をもった方は是非本書を実際に手にとってほしい。
その3つは
⑴ジャーナリズムの第一の責務は真実である。
⑵ジャーナリズムは第一に市民に忠実であるべきである。
⑶ジャーナリズムは独立した権力監視役として機能すべきである。
⑴の「真実」という点では、ゴーン氏の報道は真実を取り上げようとしていると思われる。それはゴーン氏の報酬の実態を明らかにしようとしていること、検察による彼への法的な取り扱いを報道しているからである。そこから彼がどのような問題を引き起こしたのかという解説を施すことも同様である。
もちろん、その解説を含めた価値評価はオーディエンスに委ねられている。ただ、どうしても情報源が検察中心であるために、ゴーン氏側の情報、あるいは彼らの考え方が見えづらいという点は問題を孕んでいる。もちろん裁判がそういう場になるはずであり、そういう観点から見ても推定無罪は適応すべきである。残念ながら、そういう意識は希薄なように思う。特に法的解釈が難解なのであるから、もっと慎重であってもいいのではないだろうか。
前回のブログでは報道がナショナリズムを刺激する内容になっていると指摘したが、問題を僕たちが理解するために言説のエコノミーによって必然化しているのがナショナリズムであり、僕たちの社会がそういう社会であるという事実が現れていると思う。これはメタ的な水準からの視角だが。
問題は⑶にある。
⑵は⑶と密接に関わるので、ひとつにまとめて考えてみよう。いわゆるジャーナリズムの本質として、ここでは権力のチェック機構であるべきだとの主張になる。この点では、どうしても、ゴーン氏の報道はジャーナリズムの本質に適合的ではないと言わざるを得ない。
(つづく)