木村花さんを誹謗中傷したツールはもちろんSNSである。その前に彼らはリアリティショー「テラスハウス」にハマっている。本ブログからすると、彼らは「テラスハウス」との間で臨場感空間を作っており、高揚している。
それだけなら、ただテレビの内容にハマっているだけで、それほど問題が外部に現象化することもない。どのような感想、意見を持とうがそれこそ自由である。その意味でパーソナルな空間にとどまっている。つまり社会的な広がりを持たない。
SNSはよく指摘されるように、そのパーソナルな感想、意見を外部化するために、そのパーソナル性が社会性に変貌する。そし、SNSに書き込みすることで、SNSとその個人との間に臨場感空間が生じる。
それはパーソナルな言説でしかなかったことがSNSというテクノロジーが有する力学によって社会的な広がりを持つことになる。その社会的広がりが担保されることが臨場感空間になり、高揚を加味する。この高揚は嗜癖となる。
その高揚に加わるのが正義の主張という正当性の感覚である。かなり以前からネットの掲示板でも指摘されていたが、掲示板での主張は道徳的な主張が多くなる。自分が正義を有しているという感覚は正義の主張を過剰にし、その正義の否定に対して敵対的な姿勢を示す傾向がある。
その理由の1つは、生身の人間ではなく、対象が言説であるからだ。言説であるがゆえに、その言説を発した生身の人間を想定することが難しなる。これもまたよく指摘されるように、いわゆるバーチャルであることの問題である。
そしてこのように生身の人間を想像しづらくしているのが、実は先の高揚感でもある。正義の言説を立ち上げているという高揚感、さらにそれを否定するものに対する言説を立ち上げることによって、さらに強化される正義感という高揚感が循環する。この高揚感の循環こそが曲者だ。
結局、高揚感の循環はつまりはエコーチェンバーを自らの思想に中に作り上げることだから、この言説は自らに戻ってきて、自らを洗脳するようなメカニズムを持つ。
高揚感やエコーチェンバーに切れ目が入り、他の考え、それは普通の感覚の彼の感覚でもあるので常識が戻ってくると、自らの行いの意味を知ることになる。あるいは、「軽い気持ちで」という程度の言い訳を生んでしまうことになる。誹謗中傷した者達は非常に限られた空間の中で、それはリアリティショーとの間の臨場感空間とSNSとの間の臨場感空間とが二重化した空間性の中でのみ自生し、その時、その外部、つまりは常識や社会性を失ってしまっていたのだ。
テレビを観ていて、腹が立つこともあるだろう。あるキャラクターやその言葉尻に不道徳をみて、正義感を燃やすこともあるだろう。家族や友人との間でそういう手合いの話をするだけなら、ネタとして共有したりするだけで、ある種の共同性をそこで作り出すだけである。
想像してみると、そのような悪口は当人の前ではしないものだ。改めて言うまでもないことだ。それが一種の規範でもある。しかしながら、その悪口を当人の前でしたり、噂として広がり当人が知ってまった場合、傷つくことを僕たちは知っている。だから、僕たちはそのようなことを行わない。たった一人から傷つくことを言われたりしただけで、なかなか立ち直れなかったりするものだ。
それを不特定多数から言われるのがS N Sを媒介した現実である。平気でいられるわけはないのだ。それを可能にしたのが臨場感空間の二重化である。
(つづく)