Drマサ非公認ブログ

木村花さんの問題を考えてみる5

 ここでSNSにハマる心理を2つに分けて論じたい。1つは木村さんのように、おそらく普通の利用における心理。もう1つは誹謗中傷するユーザーの心理である。

 後者の方で思い出すのは、ネット上で特定弁護士に対する懲戒請求の呼びかけしたブログサイトの運営者に多くの人たちが賛同して、懲戒請求を行った事件である。「余命三年時事日記」ブログだった。

 NHKの「クローズアップ現代」が実際に「余命三年」ブログの呼びかけに応じ懲戒請求をした人物にインタビューしていた。彼らは当該弁護士から訴えられており、そのような事態に発展していたことに戸惑いを隠せないでいた。「まさか、こんな大きな問題になるとは」との反応であった。

 その属性は若者ではなく、40代、50代を中心に70歳代の者もいたという。若者が訳も分からず懲戒請求をノリでやったということではなかったのである。ここで懲戒請求の中身には触れないが、実際にインタビューを受けていた人物は「正しいことをしている」と感じていたという。

 そこで問題になったのがネット空間が作り出すエコーチェンバーであった。ネットは開かれていると考えがちだが、実はそのアーキテクチュア(技術的特性)から、同じような言説にのみ触れることになる。エコーチェンバーとは、1つの部屋に居て、同じような言説が飛び交い、エコーのように響くような現象がネット空間の特徴であることだ。

 例えば、韓国バッシングの言説を検索閲覧していると、韓国バッシングのサイトに繋がりやすくなって、そういう言説に心理的に囲まれるのだ。

 この時、いい大人がブログのネトウヨ的な言説に感化され、そこに正義があるように信じたのである。おそらくだが、ネットで同様の事例について検索する。そうすると、そのブログの主張が正しいと強化するような言説に当たってしまう。そうすると正義を確信する。

 だからブログの趣旨に賛同して、懲戒請求すれば、その「私」は正しいことをしたと確信する。これはネット空間が臨場感空間になっている。彼らは正しい行いをしたとして、高揚するのだ。

 ところがだ、ちょっと冷静になると間違いだとわかってしまう。このケースでは、彼らが逆に訴えられたという問題が起きたからである。ネット空間での臨場感空間で構築された信念が、現実世界における「訴えられる」という事実によって臨場感空間を相対化し、まさに現実に引き戻されたのだ。それが「まさか、こんな大きな問題になるとは」との認識を呼び出したのだ。

 ここで少しばかりネット世論に関する考えを述べておきたい。ある状況においてなにがしか正義とされる言説が横行する。ネットの言説のパターンである。正義、大義を持ってすれば、それに違反する人間を批判する権利を獲得すると。それは正義からなので、現実の人間に対してなら躊躇するような非道な言説を立ち上げる。

 おそらくエコーチェンバー化されたネット空間というその正義を否定するような言説を排除した空間で、非道な言説をしてもいいという空気が作られる。この空気は攻撃性を許容する空間を担保し、その空気に合わせて言説が組み立てられる。

 あくまで言説なのであって、現実の人間が対象ではない。しかしながら、実際にそのような非道な言説を読む受け手は言説ではなく、当たり前だが、現実の人間である。人間は言説との間にも臨場感空間を構築してしまう。ゆえに、言葉に傷つく。

 しかも、ここは議論が必要かもしれないが、その正義もあくまで攻撃性を発揮するためのアリバイにすぎない。俗に言う鬱憤ばらしである。明らかに倫理ではない。実は彼らは本当に正義に関心があるわけではない。正義を知らないのだ。神様がいるかどうかはここで問題にすることもないが、例えば「神様が見てる」という感覚、日本的に言い換えれば、「お天道様が見てる」という規範意識を獲得して来られなかったのである。

 そこで、木村さんを誹謗中傷した者たちである。

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