いくらでもあげられるけど。少しだけ。
申し訳ないのだけれど、哲学者の佐々木中さんの Twitterを拝借させてもらいます。ちなみにその著書『切りとれ、あの祈る手を』河出書房新社2010は読ませていただいている。読むという行為、書くという行為が持つ恐さ(強さ)を表現している。
で、こんなTwitter
森元首相「杖を突いてると障害者に見えて、皆が大事にしてくれる」
— 七尾旅人 (@tavito_net) October 29, 2022
生きるため杖や車椅子を使い、それでも通りすがりに舌打ちされ、なじられ、世間の冷淡さに晒されている人たちが居るのに。
これを老害の一言で済ませられりゃ気も楽だろうが、擁護リプの多さ。他者への無感覚が社会に感染していく。 https://t.co/dKmZtVXENO
民間企業の企画じゃねぇんだ。税金使ってやる政府の仕事だ。まず最初に是非を聞けよ。頭、おかしいのか?/マイナカード推進、「是非をいちいち国民に聞いて進めるものではない」平井卓也初代デジタル大臣(ITmedia NEWS)#Yahooニュースhttps://t.co/ndeShhHuUC
— ガイチ (@gaitifuji) October 28, 2022
ということで、ここで取り上げられている森元首相や平井大臣。こんな人たちが日本社会の中枢です。東京オリンピックの賄賂の話、いまの旧統一教会の問題。その中心は日本の政治経済社会の中心。
そりゃ日本がいい国なわけないではないか。彼らを日本の中心にしたり、自民党を選んだのは、僕たち有権者=国民。
「自民党に投票するからこうなる」がトレンド入り。また消費税あげるとか、国民年金負担増額とかやろうとしているのに。国民負担率を見たら重税国家まっしぐら。
見事に国民にとって国家はリバイアサンになっている。リバイアサンはホッブスが言った神をも恐れぬ怪物から、国家が刃を向けると国民などひとたまりもないという国家の恐ろしい性格を表している。しかも日本的リバイアサンは、じわじわ国民を苦しめる。まあ国民茹でガエル状態。
国民がこういう隠されていた事実に気づく時。それが今の旧統一教会等々の問題があらわになることであれば。日本の歴史的転換の時であるが・・・