「少年革命家 ゆたぽん」君が話題になっている。10歳だそうだ。
新聞なんかでも取り上げられている。ちなみにネットで少しだけ知っていたのだが、5月15日(水)の朝の日テレの情報番組で取り上げられていたので、少しばかり意見を書いてみる。
彼が学校に行かなくなったきっかけは宿題を拒否したところ、休み時間などに教員から強制されたことだったという。それ以降なのだろうか?「俺が自由な世界を作る」とyoutubeの活動をはじめ、学校には行かなくなったという。
子どもが教育を受けるのは権利だし、そうさせるのは親の義務であるから、現状の法のありようからすれば問題だ。ただ、学校教育自体には限界もあれば、問題もある。数十年経てば、学校という教育制度自体がなくなることもあるかもしれない。近代における教育の役割が終焉する。そんなことまで視野に入れれば、学校だけが勉強というわけではないという意見は必然的だ。
学校に行かないという選択は、だからあり得る。ただ本当のことは知らないが、そのきっかけが宿題問題からだとすれば、どうなのかな?という感じもする。
というのは、「いやなことをやりたくないから、やらない」というのは世界との関わりにおいて、非常に困難な姿勢であるからだ。じつは誰もが「やりたくないことをやる」ことで生きているという側面があるからだ。自分が好きな仕事についたとしても、どうしても好きではない仕事がつきまとう。程度問題というのはあるけれど、それが人間の世界でもある。
そういういやなことを多少なりとも引き受ける場所として、学校は都合のいい場所ではある。クラスの友達と関係を構築することの中にはいやなこともある。大抵は全体的にその程度のことという認識になる。
面白いことに、いやでやっているうちに、そこに面白さや自身の向き不向きを知る機会にもなる。程度問題はあるけれど、いやなことを引き受けるということは、そういうことに対応する力を作ることになる。僕は勝手にこういう力を社会的免疫力ということにしている。僕は社会の中からこういう力が減少し、社会を作り上げられなくなることに一番の危機感を持つ。
じつはこのような好きなことだけをやるというのは、最近はやりの価値意識でしかない。だから、世の中からかけ離れた行動のように見えるけれども、じつのところ、世の中に適合した考えを持っているだけに過ぎない。その程度のことなのであって、ことさら変わっているわけではない。実際、この男の子が発する言葉は大人の言葉を引用した真似事である。
それが一番感じられたのは、「不登校の子達を救済する」との趣旨の発言である。これは3.11の後からメディアに出る人々が災害にあった人などに、「勇気を与えてあげたい」との上から目線の言葉を発することに似ている。
そもそも災害にあっている人、不幸な境遇にある人に「勇気を与える」「力を与える」ことができる人になるというのは、肥大化した自我を感じざるを得ない。なんとなくいいことを言っているように素通りしてしまいがちだが、結果的に「勇気を与えられた」「力を与えられた」のであって、そんなことを目的意識として生きるというのは、翻って、自己を特別な存在とすることに価値をおき、その対象に弱者を設定していることになる。この構図は錯綜しているとしか言いようがない。ただ僕たちの生きる社会では、このような言葉が言説のエコノミーとして一人歩きしているのも事実である。
ちなみにこの子供の父親の言葉をみると、自分たちが間違いなく正しいという思いを抱いているようにも思われる。それは人間は間違うことがある、あるいは無知の知のような地点を欠いているようにも見えるのが心配なところである。
こんなことを書いておきながら、じつは「ゆたぽん」君に頑張って欲しいなと思っている。あくまで老婆心で、届かない言葉を綴っただけでもある。僕の希望は無心に遊ぶことを覚えて欲しいなというくらいである。