3回ほど「43年ぶりに小学校の時の担任の先生と会った」という話をした。規則ではなく、まず愛でしょっていう主題であった。
じつはこの話をしている中で、新約聖書の「善きサマリア人」の話を思い出していた。以下のような話である。
30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(「ルカによる福音書10章」)
簡単にまとめると、追い剥ぎにあった「ある人」を知って祭司は無視し、祭司の使い(レビ人)も無視した。しかし、サマリア人だけは「ある人」に共感同情し、手当をし金まで工面したという話である。
私自身は聖書の解釈など門外漢であるから、思ったことを述べたい。ちなみに田川建三『イエスという男』は名著中の名著である。田川さんのように深くイエスを研究し続ける強い精神を持つわけでもない私が、イエスについて語ること自体恥ずかしいことなのだが、ご容赦いただきたい。手短に。
司祭は当時のユダヤ社会では重要な地位を占めている。レビ人は司祭についている存在であるらしい。ユダヤ社会は律法によって規定される。旧約聖書を元にした規則を理解している者が権力であり、権威であって、祭司たちはその専門家であるから、その専門性を誇っている。
サマリア人はあまりいい人とは捉えられていない。差別的視線の中で生きていた存在なのだろう。しかしながら、彼が「ある人」を助ける具体的営みを行った。それは権威ある祭司ではなかった。
この話は譬え話のようであるが、イエスの言葉には「お前ら祭司は律法、律法ってうるさいけど、隣人になるような行為もしないじゃないか」と怒りがこもっているようにさえ思えてしまう。律法とは私のような門外漢からすれば、規則である。
現在の私たちの社会も規則を重視し、法律をよく知っている法律家が高い社会的地位を誇る。官僚も含む。ついでに法令遵守(コンプライアンス)だ、校則だとか、マナーが大切とかを強調する。大抵は教条主義的だ。なんか2000年前のユダヤ社会とシンクロするではないか。
イエスはそこで「規則じゃなくて、愛でしょ」とその社会のありようをラディカルに批判したのだと思う。いわゆる隣人愛だ。宗教は人々の行動(エートス)を規定する。いわゆる規則であるし規範として現れる。ところが、ひっくり返してイエスは愛にしてしまう。「愛の宗教」とキリスト教は言われる。
ただ人々が生きる時にどうしても規則に従ってしまう。規則は法、規範、道徳などであるが、それらをひっくり返してしまったということではないか。徹底的に根本的に変革をしてしまったと言えるのではないか。
仮に人々が規則の前にまず愛を元にした行動を取ることを当然としたら、この世が天国になる。そういうことなのではないか。愛は人が人とつながる共感力のこと、とりあえずこのブログでは中途半端ではあるが、この程度の位置付けにしておこうと思う。
う〜〜まだまとまっていないなあ。