Drマサ非公認ブログ

自然に遠ざかる病8

 どうも東西で自然の意味は違うようです。自然の反意語は人工とか人為などになりますが、僕には不自然という言い方がなんだか腑に落ちる感じがします。

 話が脱線しますが、整形にはなんだか不自然な感じを受けることがあります。誤解されたくありませんので、整形も必要なこともあると思います。ただ整形を重ねて、彼女/彼が求める美はなんだか不自然であり、その人工的というか人為的という“装い”を感じてしまい、そのように“装う”ことに何か強烈に植えつけられた観念の現れのように感じるのです。この“装い”は作為と言い換えられそうです。

 戻りましょう。通常自然とは人為的作為によらず存在する現象です。作為によらない人の外界にあるもの程度の意味でしょう。しかしながら、日本人が「自然さが足りない」と言う時、緑が足りないとか、空気が良くないという外界に限定されない奥行きがあります。これは「自然(じねん)」の意味で、自ずからあることですから、ある人の発言にも「自然さがない」「不自然」と、人間にも自然のあり方が内包されています。

 そもそも自然はnatureの訳語です。明治期に入ってきた西欧の言葉を日本語に置き換えてみたわけでしょう。そこで「自然(じねん)」が、固定化された山や川など外部環境にみられるようになったのだけれど、どこかに「自然(じねん)」という意味を持ったママなのだと思います。日本人は日本語で考えるわけですから、こういう言葉の意味はなくなりませんが、先の整形への“崇拝”的態度から、そのような意味が剥奪されてしまったのでしょうか。これは少し短絡的でした。

 ここで確認したいのは、自然とnatureは違うにも関わらず、同一化して混乱しているのではないでしょうか。この両者間にある差異を喪失していけば、自然とnatureを同一化するので、どちらか一方が強くなれば、文化的に一方の支配下になってしまうかもしれません。意識は同一化を志向しますが、身体(無意識)は差異を受容しているはずです。この同一化の力とは、意識に現れていますが、これが「頭がいい」ということになるわけで、現代の教育はそういう方向に流れているようです。

 この両者の違いは宗教にあります。西欧では一神教の神が創造主となり、自然を構築し、神の似姿として人間を創りました。中心は人間になるので、自然は対象化され、人間が利用していいモノです。自然は人間に奉仕するべきなのです。

 ところが、日本では自然という言葉に、自然本来のあり方を志向し、人間は自然に内属しています。どうしても、西欧の自然観では収まりきりません。これは西欧の人たちには、なんだかよくわからない部分を持たせてしまうでしょう。

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