一方を選べば、1万人死ぬ。それでは、1万人死ぬのに加担するようではないか?
もう一方を選べば、100人死ぬ。それでは、100人死ぬのに加担するようではないか?
通常100人死ぬ方を選ぶと考えられるわけだが、その100人の中に家族がいたら、100人の方を選ぶなどと簡単に決められない。通常こちらの選択を共同体主義という。
しかしコロナでは、家族が100人側にいるかどうか、1万人の側にいるのかどうか、事前にわかるわけではない。
そこで何が正しい政治的(道徳的)判断になるのか、決定不能になってしまう。正しい選択ができないという結論になってしまう。そこで、ワクチン接種における正しい選択ができないので、ただ決めることができないでいるのだ。
ただ逡巡しているのだ。
それで、ワクチン接種をしないでいる。だから、選んでいるのではなく、選ぶことができないだけのダメさ加減である。
そこでワクチン接種をしなければ、何か問題が生じるだろうか?と考えてみる。
僕自身がワクチン接種しないでいることで、周りに悪い影響を与えるかというと、統計上0であろう。なんせ大部分がワクチン接種するのだから、そのおかげで社会的免疫がつくられる。ただこの場合、僕がコロナになる可能性は微妙に残ることになる。
ちなみにワクチンが効くという仮説の上での話だが、僕がコロナになっても、その時はコロナの影響はインフルエンザ程度にまで押さえ込まれると見積もることができる。
実際はそんな簡単ではないだろう。変異株の問題もあるし、なんせ人類が経験したことないウィルスなのだから、わからない部分があるに決まっている。
とかなんとか、理屈を述べてきたのだが、あくまで理屈をこねただけである。
これまでの話は、人間が選択する存在という前提の上で書いたものだ。まあ近代的主体ってやつなんだろう。
実はワクチン接種をしない“本当の本物”の理由は、「なんだかイヤだ」からにすぎない。選択しているのではないのだ。あえて言えば惻隠の情みたいな感覚である。
子供が転びそうになった時、思わず手を出してしまうだろう。この時「助けよう」と考え、手を出すことを選択するのではない。勝手に体が動くのである。それが惻隠の情である。
自分が行動する時、何かを理由にして、そのことを頭の中で色々考えを巡らして、合理的に判断し、行動する。そんなことではなく、直観的にワクチンに対して「なんだかイヤだ」と心身が言っているような気がするのである。
そう言えば、合理的にとか、効率的にとか、ポリティカルコレクトネスとか、そういうのが嫌いなんだが、ワクチンにどこか同じようなものを感じているのではないかと思う。
また考えて見ます。