Drマサ非公認ブログ

公園の風景⑴:共同性論

 職場の裏口の方に公園がある。午後、その公園を通ることがよくある。その風景から感じたことを。

 小学校に入る前の子供たちとそのお母さん達が数多くいる。多い時には子供だけで100人ぐらいいるのではないだろうか。そのぐらいの数の子供がいると、お母さん達も40人程度はいると思う。

 そんな大きな公園ではない。都市の住宅地にある公園なので、大きさは想像つくのではないかと思う。ジャングルジムやブランコなどの遊具があって、これだけの数がいると、大変賑わっている感じがする。いや、満員である。

 お母さん達が子供と一緒に遊んでいることもあるが、彼女達は彼女達で雑談を楽しんでいるようである。まあ近くにいて、見守っているという事なのだろう。一応少しはお父さんもいることは付け加えておく。

 子供達は想い想いの遊びに興じている。遊具を楽しんだり、ボール遊びやフリスビーなどを行なっている。このような場所では、昔と遊びが変わっているというわけではないようだ。実に微笑ましい光景ということになるだろう。

 しかしながら、この光景を見て、ふと違和感を抱いたのである。

 まず感じたのは親の数が多いということである。「昔はよかった」と言いたいわけではないことは付け加えておくが、僕が子供の頃、公園で遊ぶ時、親なんかほとんどいなかったのではないだろうか。

 実は僕の子供の時の家はこのような公園の隣であった。幼稚園から帰宅すると、その公園に子供達が自然と集まって色々な遊びに興じていた。すぐ隣や近隣に親がいるわけだから、何となく親は子供を外に出しながらも子供の匂いを感じつつ、家事をこなしていたのではないかと思う。

 安全であるとか子供が怪我をしてはいけないとか、小さなリスク意識が現在では強いし、怪我でもすれば、誰かの責任とされる社会的雰囲気が作られている。そこで親は子供の近くにいなければならない、そんな意識が作られているのではないかと思ったりする。そこから見出されるのは安心安全第一の意識ではないだろうか。

 とはいえ、子供が怪我をするかいなかと親がそこにいることにどれだけの因果関係があるのかといえば、少し疑問である。仮に怪我する確率を少しばかり低くできるとすれば、子供が自由に遊んでいることを制限することだろう。「それは危ないから、ダメよ!」と。

 その分、遊びから自由は失われるし、危ないことを実感する経験を失う。少しばかり、怪我したとしても、その経験が「して良いこと」と「して悪いこと」を判断する力を作り出す。

 安易な主張をしてはいけないけれども、安全を重視すれば、自由を失い、自己の力を作り出す機会が少なくなる。なんかカゴの中の鳥ではないか。こんなことを考えていると、お母さん達が数多くいるのは見守りというより、監視しているということではないかと思ってしまう。

 ここにフーコー的な生権力を見いだすこともできるのではないかと思ったりもする。

 僕が子供の頃は、親は子供達が遊んでいる声や雰囲気を感じたりしていれば、安全かどうかなど気にしてもいなかったのではないか。子供は子供だけの世界を作っていた。そこに地域社会としての信頼や共同性があったとしては美化しすぎであろうか。

(つづく)

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