分岐器を真ん中にして、トロッコを脱線させるという解答はトンチみたいなものだから、「笑えるなあ」という感じだ。ただトロッコ問題をきちんと引き受けているわけではないことは当然だ。
実際、問題を分岐機が真ん中にはならない設定にした瞬間、このトンチは意味をなさないわけだから。
自分が助ける事が出来る人間がいて、1人助けるのか、5人助けるのかという切実な問題が現実として身に迫った時、僕たちは何を正義とする事が出来るだろうかという問いを引き受けるところから、このトロッコ問題は意味をなす。
別にトロッコ問題ではなくてもいい問題だ。功利主義を採用して、多数が幸福になれば、それが正義であると考えがちだけれども、取り残された1人に想いを馳せれば、それを正義であるなどとは言えないという人間のパラドキシカルな存在の有り様が浮かぶということになる。
その1人が死んでしまえば、助かった人間たちは助かったこと自体に罪さえ感じるという事があるだろう。よく災害で生き残った人が亡くなってしまった人に負い目を感じる事がある。そういうことだ。
人間にはそういう存在である事を自覚してしまえば、この世に1人でも不幸な人間がいることを自覚した瞬間、自らの幸福が霧散する。そういう事があるのが人間なのだ。
だから、このような問いに対して、なにがしか決断したとして、それは正解とは言い難いのかもしれないとの自覚を生み出すことになる。そこで、さらに何が正しいのか、正義とはないかという問いが永遠回帰する。常に問いとしてある、そういう存在の有り様(モード)とでも言えばいいのだろうか。
それでもなお、僕たちはなにがしか選択しなければならない。それもまた人間存在のパラドキシカルな状況が待ち構えている。
だから、永遠回帰である。
次に何もしないということの問題について語ろうと思う。
(続く)