かなり前になるのだが、テレビで見た話を。夕方のニュース番組の1コーナーだったと思う。
1人暮らしの高齢のおばあちゃんが台所に棚が欲しいが困っている。そこで登場するのがなんでも屋(便利屋)さんだ。おばあちゃんはなんでも屋さんに電話して、棚を作ってもらった。「助かるわ」「便利ね」「こういう人たちがいないとねえ」などとの感想を述べていた。もちろん対価はある。2万円程度だったろうか。
テレビ番組の1コーナー、なんでも屋さんの奮闘記である。ゆえに視聴者が楽しめる構成になっていて、その意味でジャーナリズムではなく、エンターテイメント風である。
この番組を見ていて思い出したのが、僕が子供の頃なら、近所のおじさんとか親戚がやってきて、その程度の大工仕事はやってくれたということだ。お金はかからない。ただ、「お疲れ様」程度にビールの1本も出していたように思う。まあ、その人が酒癖悪かったりするのが、また面白いのだが(笑)。
このおばあちゃんは困ったことがあると、近所のおじさんとか親戚という共同体にお願いはしないで、なんでも屋さんという職業の方に対価を払って依頼するのである。
ゆえに、なんでも屋さんが人々の助けになっているということではなくて、僕の見方は共同体が喪失してしまい、その代わりにお金を払って見知らぬ業者を頼む社会になったという感想になってしまう。
近所のおじさんとか親戚が想定しているのは共同体との繋がりであるが、現在ではそういう共同体との繋がりがないので企業や行政のサービス頼りになっている。こちらは(社会)システム依存である。システムは人と人を絆のような連帯で繋げないで、お金で繋がる。まさに金はメディア(媒介)である。行政は当然税金で繋がる。
ただそう単純でもない。確かになんでも屋さんが依頼も受けないで、つまり報酬もなくおばあちゃんのことを気にかけることは少ないだろう。でも、そこに人情がないとは言えない。たまたま近所を通った時に、おばあちゃんに声をかけるということもあるかもしれない。こういう人情的なつながりをゲマインデ(Gemeinde、共同性)と考えて見たらどうかと思う。
そう考えれば、システム依存にあってもその中で共同体的な(同語反復的だが)ゲマインデがあり、システムではない人々の共同性、連帯がかいまみえると。システム依存ではあるが「共同体的」なつながりがある。
例えば、死ぬ時に病院ではなく、自宅で死にたいという人が多くいるに違いない。しかし、現代社会では病院で死ぬ。これはシステムである。しかし、自宅で最期を迎えたいという人がいる場合、その人の気持ちに寄り添いたいと、医者を中心とした医療スタッフや介護スタッフ、さらに地域の人々が協力するなら、彼らはシステムに所属しているが、その行為は「共同体的」であるということが当然ある。
その逆だってある。共同体の一番身近な形式である家族が何でもかんでも行政や企業サービスまかせであれば、彼らは共同体ではあっても「システム的」であるだろう。
ちなみに僕は介護事業に関わる人々と懇意にしているのだが、彼らは入所者に何があっても介護業者任せの家族が多いことを嘆いている。加えて、普段無関心なくせにクレームばかり言ってくるそうだ。
先のテレビのおばあちゃんは一人暮らしであった。システム依存や「システム的」な世界で生きているなら、生きづらいだろう。なぜなら孤立だからだ。かの何でも屋さんが「システム的」でないことを望むが、何でも屋さんに背負わせてどうする?
そういえば、僕が子供の頃、用事もないのに電気屋さんや化粧品屋さんが来てはお茶を飲んでいたものだ。絶対売り上げには貢献していないのに。