れいわ新撰組公認候補の大西つねきさんが「高齢者の命を選別すべき」と発言し、「その選択こそが政治」であると主張し、批判を浴びている。れいわ新撰組がそもそも命の選別とは真逆の「誰もが生きる価値がある」との理念を掲げているゆえに、なおさら問題視されている。
今僕は「誰もが生きる価値がある」ことを理念としたが、原的な事実だと思う。ただ原的な事実がなり立ってはいない現実への批判という点で理念なんだと考える。
僕の思想の核には次のようなプラトンの言葉がある。
「生きることでなく、よく生きることをこそ、何よりも大切にしなければならない」(『クリトン』)
「よく生きること」の内実を確定することは難しいが、常に問われるという形式で存在しているので、なかなか理解しづらいことはある。ちなみに僕が尊敬する哲学者藤沢令夫はこのプラトンの言葉は「哲学という営為の最基底にある。不動の大原則」と位置付ける。
藤沢令夫はこの「大原則」に基づきながら、近代の科学技術を批判する。その一環として、医療批判も行っている。
科学技術が人を対象とすると、人を量的にのみ捉える。そのため魂や心を含めた人間の全体論的な価値を見失い、生物的な生存と行動の有効化という量的価値のみを追求する事になる。
当然、医療も同様だ。生命を量的に捉えると、生命を生まれたときから死ぬまでの長さとしてのみ見てしまう傾向を作る。そうすると、生命のあるいは魂の質とは無関係に、1分でも1秒でも長く生きること、医療であれば、命を先延ばしすることを正義として当然視するのである。
私見ではあるが、長生き自体に価値があるという人情がこのような見方を後押しする。確かにある段階までは、医療が生き延びに資することに価値があった。いわゆる延命技術の発達であるが、ある地点から、延命が生み出す悲惨を人々は認識するようになった。
そこでプラトンに戻る。「よく生きる」ことを問わねばならないのだ。
クイズ番組ではあるまいし、東大生のクイズ王が答えられる問いではない。ただ問われるという形で全ての人間に問われることになる。
ここで2つのモードを抽出することができる。1つは「ただ生きる」ことを価値とするモード。もう一方は「よく生きる」ことを価値とするモードである。
さらにこれらモードはある価値を有している。前者が数量化であり、後者が数量化では捉えきれない全人格的な価値である。後者は前者を含むが、その乗り越えとしてもある。
さて、大西つねきさんの生命の選別問題である。僕は彼の経済論をYoutubeで1回見たことがあるだけなので、医療に対する考えについてはよく知らない。今回の問題に関するニュース記事を少し読んだだけでもある。
彼が優性思想を主張したのだろうか?
例えば、彼は次のように言及している。
「命のためと言いながら、個人の尊厳を奪ってることが多いように見えるって、僕もそんな気がしますね。難しい、そう、ほんと難しい問題なんですけど、難しい問題をちゃんと我々、正面切って考える必要ありますよね」
「その結果、とにかく長生きが一番っていう人たちが大勢だったらそういう風になるんでしょ。たぶんそういう人たちが大勢だったら、僕は選ばれないのかもしれませんけど。それはそれ、僕の考え、それぞれ考えがあっていいということですね」(https://iwj.co.jp/wj/open/archives/477830より抜粋)
この言及から見ると、「ただ生きる」モデルではないのだが、プラトン、藤沢を踏まえてもう少し考えて、次回私見を述べてみたいと思う。