年末フジテレビで竹野内豊主演「イチケイのカラス」の再放送をやっていた。嘘をつかないことが、人間にとって、どのような意味を持つのか、なんだかカント哲学みたいな主題を隠し持っていたように思い、ハマっていた。
嘘をつくと、当の嘘をついた人間が壊れるだけではなく、その周りの人々も、その嘘に巻き込まれ、当の嘘ついた人間を守ろうとして、皆が壊れて行く。
保身やら、庇うとか、隠蔽とか、そういう行いもまた、真実をねじ曲げる。真実は真実であるから、曲げられない。人間の心はそれを知っている。
昨年問題になったジャニー喜多川の問題、宝塚の問題、パー券キックバック問題、松本人志問題他、いろいろな問題があるが、そこには真実がある。真実を隠したりしても、当の本人はそれが真実を曲げていることを知っている。
とはいえ、真実を見ない人間、見る能力のない人間もいると思われる。真実を見ないで何を見ているのだろうか。
これらの問題が徐々に問題であるとの認識が広がっていると思われる。変革の時期であるのかと思う。ただ性急にではなく、徐々に、漸進していくものであろう。いつの間にか、そういう変化が起きていた、そうなるのではないかと考えている。
年が明け、石川で大地震、そして日航機と海保機が衝突炎上。年が明けても、なんだか不吉な感じがある。特に後者は日航機の機長と海保側の主張が食い違っている。どちらかが嘘をついているのだろうか。とすれば、真実を知る者は、真実を捻じ曲げない、これ以外人間を救う道はない。
前者の地震に関して、このような記事が出ている。
これまでの被災で、このような酷い出来事が多発してきた。被災しているにも関わらずコンビニで並んで買い物する。これは真実である。で、「日本凄いって」。
しかし、被災地でも性加害は隠されてきた。このような暴力を許してはいけない。皆が共有し始めた。
松本人志までの一連の問題の根底には、このような暴力に対する社会意識の変化が生じていことがある、僕にはそのような考えが浮上してくる。そういえば、日本は性加害と今は名付けられる問題に対して、いい加減でありすぎた。
嘘を吐かせる社会とは、社会自体が暴力なのである。