プロレスラーの木村花さんが亡くなった。ネット上の誹謗中傷を苦にして自ら命を絶ったようだ。
僕自身、大のプロレスファン。彼女が所属するスターダムも関心の中にあった。涙を飲んで言う。プロレスラーなんだから、リングの中だけではなく、リングの外でも闘って欲しかった。プロレスは単なる競技ではない。競技を超えた“闘い”を表現する場だからだ。
こんなことを言う自分が虚しい。
少しだけ問題となるネットの誹謗中傷に関して思ったことを記そう。
早速政府やテレビのコメンテーターあたりがネット規制を口に出している。僕は大切なことだとは思わない。こういうショックで人々の気分が作られる。その空気に乗じて、監視を強めることに向かうのは考えてしまう。
ネットの匿名が誹謗中傷する根本は何なのか。そういう問題である。
いくら規制のため法整備を行っても、やる奴はやる。確かにネットの広がりが規制されれば、ネットではやりづらくはなるだろう。ただネットでできなくなっても、他でやる。
だから問題解決は、ネットで誹謗中傷する人間がどうして生まれるのかという心理学的問題を解決すること。もう1つはネットの誹謗中傷を気にかけすぎる社会のありようを社会学的に解決することである。
ネットで誹謗中傷を繰り返す人間は、よく指摘されるように、どこかで正義を持っていると思っている。確か荻上チキさんがネットの道徳の過剰を指摘していたのは、遠に10年以上経過している。
正義はルールや道徳、つまり規範の順守で測られる。ゆえに彼らはそこを拠り所にしているに違いない。仮に興味本位やノリでやっているとしても、そういう規範に寄りかかる。
以前このブログで規範ではなく、愛が大切だと書いた。以下気が向けば参照していただきたい。長くなるので割愛してもらってもちろん構わない。
https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/3189e64bdce0065b17c93aa53ed27061
https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/d78de164d239a1d225b0b0ea2fd3c415
https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/0bd86080f0d49585edf2061ac7b9ef28
https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/38210fc7da0b4eff5f81ce527b838df2
愛された経験がない人間は愛することができない。E・フロムの言う通り愛は技術であり、学んで来なければならないからだ。最近はこの問題を社会的承認や愛着問題として取り扱っている。愛されることは自己に生きる意味があることを知らしめる。この意味は実存である。愛される経験がないと、生きていてもその意味を見出せない。ゆえに他者に意味があることを知ることが難しい。
だから彼らがどこかで愛する経験、愛される経験をしていれば、愛ではなくて、規範だけを適応して、あるいは規範を隠れ蓑にして、人を傷つける言葉を簡単に吐くことはできないと思う。規範の正体は他者との比較を通した優劣である。だからよく言われるように自己の優位を仮構して、規範としての虚偽的な自己を満足させる。これほど虚しいことはない。人間の終焉とでもいう思想家が出そうなくらいだ。
この問題については、示唆的なものに止まってしまう。
ただもう1つ言えることがある。製作者側が恋愛をリアリティショー化する上での作法というものを身につけていないことを。彼らの罪は深い。リアリティショーは「現実の恋愛をカメラで捉えられるのか」との実験である。現実志向である。
ところが日本ではそうではない。面白くするために演出を組み込み「夢のような恋愛を捉えようとする」。同時に、夢は悪夢でもいいのである。ゆえにファンタジー志向になる。
欧米でもリアリティショーで自殺者がでている。私の知る限りでは、番組内で起きた現実を苦にしてとの原因である。ネットの誹謗中傷は周りからも見られている程度の苦を作るとは思う。ただネットでの誹謗中傷が主な原因であることはない。あるとすれば韓国である。欧米では、そのため、警備員、弁護士、心理療法家が番組制作にたずさわる。心理療法家がつけばうまくいくかといえば、心もとない気もするが、彼らに権限が付与されれば、ストップすることもできる。
日本でそのような体制が取られていたとは思われないが、どうだろうか。
木村花さんのご冥福を祈ります。