正確には、NHKのドキュメンタリー番組「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」「アントニオ猪木vsモハメド・アリ “世紀の一戦”の真実」が昨日7日放映された。
プロレス関連の書籍やネットでは語り尽くされた感はあるが、さすがNHK、独自の取材で、見応えのある番組になっていた。
番組紹介の記事を貼っておこう。
僕が思ってきたこと、この番組でも同様なのだが、当たり前のように「真剣勝負」という言葉が使われる。あくまでスポーツであるから、「真剣勝負」とは正統的な競技が成立していることを意味する。いわゆる近代スポーツである。
しかしながら、「猪木対アリ」は正統的競技ではない。異なる競技者が試合をするわけだから、競技が成立するための土台がないのである。スポーツが合理化され、平等、規則の絶対性への信奉などが成立したところで、初めて「競技」が成立する。
ところが2人の試合は、そもそもお互いが競技をするのか、ショーとして演出されたスポーツを魅せるのかという、その部分でも食い違っている。そこから、番組が見つけ出してきた事実が積み重ねられるうちに、当日のリングに対峙する2人、そういう場面が構築されてしまう。
近代スポーツとしての競技は事前に土台として成立しているのだが、この土台が成立していない中での試合、これは規則が曖昧であるからこそ、事前に何が仕掛けられるのかわからないのだから、恐ろしい。特にアリの方が、恐ろしかったのではないか。
そのような土台の成立がない中での試合は、まさに命がけであり、ジャンル(プロレス、あるいはボクシング)を背負っていたり、アリはイスラム世界を背負っていたりする。もし猪木がKOされていたら、イノキの存在自体が否定される。
2人はそういう世界で彼らなりの「真剣勝負」を構築していったのである。当時の人々は幸運であった。競技と重なりながらも、「真剣勝負」が構築されていくリアルを目撃することができたからだ。このプロセスやリアルはなかなか言語化できない。そこが明らかになって行くこと、僕たちが理解する目を持つことができるためには時間が必要だった。
今は異種格闘技戦は近代スポーツ化して、総合格闘技という競技になった。その前に「猪木対アリ」があったからこそ、成り立つ競技であると、2人が残した遺産をやっと意識できる時代になってきたのか、そんなことを考える。
バカな奴が、現代の技術論でのみこの試合を評価したら、歴史という意識自体がかけていると言わざるを得ない。
通常の報道はダメだけれど、今回NHKはいい仕事をしたと賞賛したい。加えて、プロレスがエンターテイメントであると割り切ってしまえば、こういう歴史は生じなかったのである。