とにもかくにも大事なのは心である。心を表現するにはどうしても言葉の力が重要になる。だから教育で最も大切なのは国語しかないと思う。
最近は雑学を知るようなこと、つまり問題が出て、それに対応する解答が必ずあるような、一連の問題と解答がセットになっているような知識が知識であるかのようになっている。クイズ番組が流行る理由もここにあるだろう。
まず心について見ておこう。僕が説明するより、いい動画があるので貼っておく。養老孟司の動画である。
他者の心がわかるとは、自我と他我が交換可能であること、自分と他者が同じように心を持つことを知っているということである。あの人が悲しいということは、私は「あの人が悲しい」ということを「私が悲しい」ということとと機能的に等価であることを認識している。共感・共苦とは、このような心の理論のプロセスにおいて生じる。
あの人が悲しいというのに、その悲しさに気づかないというのは、つまり心が作られていないということだ。ちなみに最近そういう人物が目の前にいて、我慢がならなかったという経験をしたばかり。参った・・・
さて、そこで教育で国語が大切という話だ。小説があるとしよう。それを読んでいる。登場人物が何か語る。そこでもう1人が受け応えて何か語る。ここには登場人物の心象風景があり、それを理解する鍵として言葉がある。
そして、それを読者が読んでいる。読んでいる時、登場人物が何を考え、どんな気持ちであるのかを理解する。これは小説上の登場人物、つまりは架空の人物の心を理解する行為である。仮に理解できないとしよう。そうすると、この小説は読者の前に現れてこないことになる。
これを文字活字で行うのが小説の読書行為である。実は小説だけではなく、評論やエッセイもまた同様である。評論の活字の中で評論を書いた人物の考えや気持ちなどを理解することが、この場合の読書である。実は学術論文だって同様だ。
だからこそ、教育というのは国語が大切であり、心を養い培うことであるがゆえに最も重要なのである。そして、心を言葉で表現しようとする行為が文学であり、その教育が国語である。言葉には余白にもなにがしか意味があるように思われる。言葉にならない思いっていうことだろうか。暗黙知的な事柄、最近はやりの言葉で言えばクオリアだろうか。この言葉にならない思いをこそ伝えようとすること、それが文学の真骨頂である。
最近は文学や哲学など人文科学系の学問が軽視されている。この傾向は人の心が大切であることを忘却させようとすることに繋がってしまう。今文学や哲学を読めない人が増えているように思う。
怖いことだ。ちなみに自然は心だとも思う。