ここのところ入院の話ばかりだったので、ちょっと休んで、少し前に感じたことを記してみたい。
女優の八千草薫さんが亡くなった。もうすぐ1ヶ月経つだろうか。
私からすると、若い頃はよく知らない。物心ついたときから、テレビに当然のように出演されていたので、年配の役を演じていた。若い頃の写真をネットで見たりすれば、美人だと思う。
ただ正直にいえば、彼女以上に綺麗な女優さんもいると思う。でも、物静かな印象とともに、なぜか非常に美しいと思う。
おそらく自然さなんだろうと思う。化粧をして、綺麗に見えるようにしているわけではない。何か飾って、女性性を強調するようなこともない(ちなみに女性性を本質的に規定するつもりはないので、ニュアンスで理解してほしい)。
でも、女性として、人間として美しい、そう感じていたし、今もそう感じる。
現在の女性は何か理想の女性像のようなモデルを設定して、あるいはそのようなありようを社会的に位置付けられていて、それに近づくように化粧をしたり、ファッションを選択したり、時には整形もする。男性にもそのような傾向は感じる。
その結果極端になると、リカちゃん人形を理想として、整形を繰り返したりする。そこには「作られた美」への追求がある。そのような例ではなくとも、化粧やプチ整形のような技術を駆使して、彼女たちは「作られた美」を作り上げようと努力する。
そのためか、皆同じような「作られた美」を求めるため、同じような姿を志向する。私はこのような事態を「フラット化する美」と名付けている。年をとると、若い子が同じに見えるというのは単にこちらが時代遅れになっているというだけではなく、実際に同じような容姿を目指しているからだ。
さらに、そこに私は不自然さを見てしまう。整形に対して違和感を持つ理由は、そのようなところにあると思う。
自然であることそれ自体に美がある。日本の美意識にはそういうものの見方があると思う。
八千草さんから感じ取っていた美はそのような自然なままであることにあったように思ってしまう。あるいは肩に力が入らず、自然である中から美が生じる。そのような美と「作られた美」は非常に対比的なように思う。
そのため、私のようなものでさえも八千草さんを美しいと感じていたのである。おそらく見た目という点でいえば、彼女より綺麗な女性は数多く存在するのだろう。美で着飾っているのではなく、その自然さが美しいのである。自然であることの中に備わっている美しさがある。ゆえに品が備わっている。
私が美について論評したり、ましてや女性の美について、とやかく一家言するなどの資格もないかもしれない。しかしながら、そういう自然から湧き出てくるわけでもなく、まさに自然体の美しさがかつてどこかにあったような気がしてならない。
八千草さんはそういう美しさを表現していた女優だったのではないだろうか。