Drマサ非公認ブログ

続子供を愛することができない社会

 「子どの声がうるさい]というクレームの問題が色々詳細が報道されている。

 クレームを入れた人物も「公園はあったほうが・・」などと言っているらしいが、空気を読んでの言葉なのか、本心なのかは、報道からでは知り得ない。それが問題の核心でもないと思う。

 なんだ識者が「あ〜でもない」「こ〜でもない」と。テレビでもそんな感じだったように思う。どの程度の騒音なら問題ないとか、ほかの国では制限がこのようになっているとかなんとか。

 知っている人の声は「うるさい」と感じないとか。これは社会心理学でよく指摘されていたことだ。これは共同性の問題として理解できる。関係を作り上げていれば、共同体の一員として認識しているので、気にならないという話だ。

 とすると、今回のクレーム主がどうゆう人間かは知らないが、他の土地からやって来て、老後でも静かに過ごそうとこの土地に来たとしたら、共同性を有していない他人であるから、「うるさい」と感じやすいことになる。ここから見えるのは、社会の構成がかつては地縁からであったものが変化してしまったということである。

 この仮説が正しいとすれば、日本社会は共同性を保つ能力を失い、各人が社会的には孤立して、偶然同じ土地に住んでいるだけである。ということで、人間同士での生活が自明であったことが、孤立した個人や一単位の家族が自閉した快適さを求める社会になっている。

 これも問題の核心であると思うが、僕は同時に別の問題の核心があると考える。それが「子供愛することができない社会」であることである。

 もちろん共同性が失われれば、近隣の子供など単なる他人である。まあ無関係である。だから「子供を愛することができない」のは自明である。

 という以上に、日本社会は子供たちが遊ぶ場所をどんどん狭めて来たではないか。どこに空き地がある。あったとしても、立ち入り禁止だ。

 道とは車が通るためのアスファルトの道路になっている。子供たちが遊んだり、道を行き来したりできる場所を道路にして、子供たちが車に気をつけなければならない世界を作って来たではないか。

 駅前にビルが乱立し、コンクリートで都市を作り上げ、どこで子供が遊べばいいというのか。僕が子供の頃、女の子が道路で縄跳びするスペースがあったではないか。今じゃいないのは何故なのか。人間より、子供より、車中心社会ではないか。

 そもそも子供はどこでも遊ぶ存在ではないか。「危ない」などと善人を装って、走り回ったり、ボール遊びをできなくして来たではないか。母親も働かないといけない社会を作っていながら保育園が足りない社会を作って来たではないか。

 教育費にコストがかかるので、子供を作れない社会を作って来たではないか。先進諸国では教育費無料でしょ。

 日本人みんなで、このような社会を作って来た、そういうことでしょ。そりゃ、子供のことなんてノイズにすぎなくなるよ。

 子供第一に考え、社会を作れば、どんな社会になるか想像して見たらいい。 

 Imazine all Japanese!

 

  

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