ご存知の通り、「子供の声がうるさい」とのクレームから子供のための遊園地が廃される。物議を醸しているので、物議を醸していると言う点で、「おかしい」「変だ」との思いを人々は抱いている点を確認できる。
もし、このような声が皆無であるとすれば、さすがに「日本終了」だろう。「保育園落ちた、日本死ね」を思い出す。
「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされることのない人」
どこで読んだのか忘れてしまったのだが、この文章が頭に浮かんだ。日本社会では、子供を「必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされることのない人」として扱うように思えてしまう。
行政が関わっているので、公共性があることが優先されるとの建前。とすれば「子供のための遊園地」と「子供がうるさい」のどちらが公共性を有するのかとの問いになる。行政の答えでは「子供がうるさい」になったと言うことだ。何が公共性か?壊れている。
もう共同体が壊れている。子供が減っていることがまさに典型。年寄り、親世代、子供世代、そして生まれてくるはずの子供たち。どんどん下の世代に行くたびに、人が減ってしまう。こんな社会、まともなはずはない。
子供が減っているということは、いろんな理屈をつけていたとしても、子供が重要ではない社会。気持ちではない。日本社会の行為の集積として、子供はいらないと言っているようなものだ。養育費や教育費にこんな悩む国家がどこにある。奨学金の話も同様。
日本は子供を愛していない社会なのです。子供を持った家族は、社会の中で子供を育てるのにコストが大きいとして、社会の矛盾を感じるだろう。しかしながら、子育てが終わり、子供が高校大学でも出てしまえば、肩の荷が降りて、他人事になる、そんなことだろうか。
子供を愛していない社会が「良い社会」なわけがないでしょう。子供のための社会を作れば、「良い社会」に向かうでしょ!