日本人は同調し過ぎ。だから皆同じ方向を向いたりするなどと批判する。コロナで自粛の時も、日本人は同調圧力に弱いからなどとの意見が散見できた。まあ確かに人に合わせて、自分の意見を持たないということを批判するとすれば、当然である。
しかしながら、同調は人間の共同性や信頼の根底でもある。ちょっと、それについて簡単に綴ってみる。
人間は、同じ時間空間を共有し、そこで同調することで共感や信頼を作り、社会を機能させて来た。同調は、例えば歌を歌ったり、踊りを行ったり、スポーツをしたり、何かの活動を他者と共にすることで生まれる。歌、踊り、スポーツは当初宗教活動あるいは自らの文化の中の神や神々への敬いから生み出された。
総じて、何か一緒に活動すること、ここに同調の根底があると言われる。実は子育ては、その典型である。子供を育てるのは女性の役割との考えは、近代以降の産業社会で生み出されたイデオロギーにすぎず、原始社会を振り返るならば、さすがにおっぱいを子供に与えるのは男性には不可能ではあるが、そこに家族成員やその延長の地縁で結びついた人々の協業として行われていた。人類学の知見です。
例えば霊長類学人類学で著名な山極寿一に、ここら辺は詳しい。
同じ時間空間を共有して、一緒に活動を行うこと、そのために同調が要求されたのである。だから共同性とは、この同調という心理学的用語を社会学的に変換したようなものだ。
さて、母親とその子供の間にある信頼関係あるいはラポールは、両者が一体不可分だからこそ生じる。胎児の時は、母親の動きを直に感じ取り、生まれてすぐ、その感覚は残存し続け、母親から抱っこされたりおっぱいもらったりする中で強化される。
そのようなつながりを根底にして、人間関係を築き上げていくのだから、音声や皮膚感覚、そして一緒に何かするということを継続していくと、まさに家族になり、共同体になるのは必然である。そうすると、共同体という枠組みでみると、そこに文化があるので、同じような服を着たり、食べ物を食べたりということが待ち受けている。
先ほど挙げた山際先生によれば、人間が他の動物と異なるのは、一緒に食べるだけでなく、食べ物を他者にあげるということだという。そんなことは動物はしないのだ。これが共同体の基本で、共食という。だから、共食することはすなわち共同体成立と維持に大きく関わっている。
産業が生活形態に合わせて、食事の在り方に合わせて、孤食だ、ひとり焼肉だと喧伝しており、そのような行動を肯定する雰囲気ができていると思うが、人間の根本が共食にあるとすれば、考えなければならぬ問題だろう。
そういえば、個人的なことになるのだが、1月にカナダに行って、娘の旦那と喧嘩して、カナダにいる間、娘とあまり話もせず、食事も別にしていた。ただ最後の日に、空港近くの名物レストランに行って、一緒に食事をすることができた。娘が考えていたことだ。
僕は、その時娘との結びつきを確認し、ホッとしていた、そんなことを思い出した。