都内の高校で教員が男子生徒に暴力をくわえた映像が話題になっている。常識的にいえば、暴力をくわえた教員が悪いことになるはずだが、どうもそういうことではないようだ。
暴力に至るまでの過程を見ると、生徒の方から明らかな挑発があったようだ。またSNSでの動画拡散は意図的であったようで、こちらも教員の立場を危うくすることを意図しているようだ。
確かに暴力はいけないとは思うが、実に生徒の手口は汚い。いまの時代、教員が生徒に暴力を加えれば、教員に対して社会的にどのような評価や制裁が加えられるのかを計算している。
同時に、自らの方は弱者として扱われるので、安全な場所にいると考えていたと思う。弱者としてというのは、まず教員を強者として、生徒を弱者とする一つの位置づけであり、加えて、暴力を加えられた当事者として弱者であるという意味である。二重の弱者性を抱えると、彼は守られなければならない存在として社会的に位置付けられるわけだ。もちろん計算しているわけだから、姑息である。
法的には彼は安全な場所にいる。この安全な場所を確保し、弱者性を利用し、教員を貶めようとしたのだから、繰り返すが、姑息だと思う。
しかしながら、彼は助かったとも言える。法などという縛りを超えて、勝手に身体が動き、もっとひどい被害になることもありうるからだ。特にこの挑発行為というのは面子の問題である。例えば、ヤクザが面子を潰された場合、どのような行為に向かうのかを想像すればわかると思う。
実はこの話をネットで見たときに、真っ先に浮かんだのは社会学者ゴフマンの「Face」という概念だ。中国語でいう面子と同義であったと説明していたと思う。日本語でも同義であろう。面子とは対人関係において円滑なコミュニケーションを行うための重要な要素である。
僕たちはコミュニケーションを円滑に行うために他人の面子を尊重するように配慮する。この事件の場面がそうだが、対人接触における個人の情意や信義を重んじるのだが、そのような面子への配慮がなく、他者を陥れようとしている。つまりは、この生徒は教員と円滑なコミュニケーションを行う意思がないわけだ。とすると、これは喧嘩を売っているのである。喧嘩を売ったのだから、殴られてもしょうがないだろう。
極論だが、殺されても仕方がない。そのぐらい面子とは人にとって重要な要素になりうる。だから、人は目下の者に対してでも面子を潰すようなことはしないものだ。
喧嘩を売っているも同然なのに、手は出さないで、手を出されるのを待つようなヤカラがいる。まあこういうのも法を隠れ蓑にする姑息は戦法であり、このような法さえ守ればいいという姿勢は僕たちの社会の中に巣食ってもいる。ただ人間は法のみに生きるわけではない。罰せられるとわかっていても、あるいは勝手に体が動いて、違法性のある行為に及ぶこともある。なぜ、姑息と考えたのかといえば、法という観点ではない、より高次にある信義とか倫理からだろう。
この教員は法的には罰せられるかもしれない。しかしながら、僕たち社会は彼を罰するわけではないだろう。そういう社会であることを願っている。加えて、この生徒も若いので、自分の行為が姑息であったことを自覚し、さらに反省してもらえればと思う。同時に、そういう彼を支える人がいてくれることも願っている。