僕たちはパターナリズムの奴隷だ。
例えば菅首相が非常事態宣言の際に「1ヶ月後には改善させる」という話をしたが、そのまま延長した。それに責任を問うこともなく、「しょうがない」というのは、それはそのような上の人間が意図していることを忖度して、下の者がその立場を支える、あるいは共謀するということだ。無関心や黙認は同一の作用を持っている。
ここで重要なのは、「しょうがない」という言葉の水準ではなく、結果的に「しょうがいない」としている行為の水準である。この行為の水準を肯定するのが気持ちといった心理学的水準である。この菅総理の例であれば、「1ヶ月で云々」というのは初めから無理であることはわかっているけれども、「そうでも言わない」と「しょうがいない」と正当化するような心理になる。
「1ヶ月後に改善させる」と言いながら、「目標を1ヶ月にした」と曖昧な答弁を許容しているのは、責任を問わない、「しょうがない」とする行為である。
今回の森会長発言に対しても、同様の理屈で擁護する者がいる。代表格をあげておこう。経団連の中西会長だ。朝日新聞によると、「日本社会っていうのは、そういう本音のところが正直言ってあるような気もします。(それが)ぱっと出てしまったということかも知れませんけど、まあ、こういうのをわっと取り上げるSNSってのは恐ろしいですよね。炎上しますから」。
彼は女性と男性を分けるのは日本文化の習慣で「しょうがない」と言っているわけだ。この中西発言を紐解けば、行為の水準で森会長の発言はいろいろ考えるところもあるが結果的には「しょうがない」。気持ちでは、「日本社会」の「本音のところ正直そういうところ」とわかっているからと。日本社会は本音として男女平等の原則がないと言っていることになるが、そりゃ日本社会では女性が生きづらくもなるよって。これ、日本の経済界のトップの”ご発言”だから、日本はオワコンだ。
森会長も中西会長もパターナリズムを共通の土台にして生きているわけだ。ついでだが付け加えておくが、中西会長は「日本の賃金水準がいつの間にか、経済協力開発機構(OECD)の中で相当下位になっている」と発言しているが、「お前がやったんだろう」とツッコみたくなる。なんと他人事なのか。
こういうのを昔の人は腹芸という。腹芸は感情を内面に押さえておいて、表面に出さないことだが、「内面はお互い了解しているだろう」と。会話のなかで具体的に表明されないが、相手の本意はわかるだろうと、日本人のコミュニケーションの特質と言われたりする。
そして、内面が思わず出ること、本音が顔を出したときは、表面的にはなかったことにする。そういう了解でしょうと。このような規範をもとにすれば、森会長の女性蔑視発言は、表面的にはなかったことにする了解ができているはずだが、問題になっているから、そのような規範を超えて、形だけでも謝ったんだから、「いいだろう」程度の認識だろう。
本音としては女性蔑視だから、そこを乗り越えるために必要なのは、女性蔑視を本音として、表面には出さないでおく行為のありようを変革することである。つまり男女平等の意識が本音となることだ。ついでにと言ってはなんだが、あらゆるジェンダーの平等の意識だ。
だから、森会長を退陣させることは、そのような変革の象徴的出来事になる。
(長くなるが、つづく)