まず承認欲求は「低いレベル」と「高いレベル」に二分されている。「低いレベル」は名声や注目などである。だから、SNSで自己表現するとか、「いいね」をもらうというのは「低いレベル」での承認欲求を満足させる。ただ安定的な承認というわけではないこともある。そのため、安定的ではないがゆえに、常に欲求を満足させるために耽溺してしまうこともある。
現代社会では名声、特に有名性は人々の承認欲求にかなっている。しかしながら、これもまた表面的に安定的に見えるにしても、その実不安定性を隠し持っている。SNSに関わっても、“小さな”有名性を獲得する装置になっているから、常に不安定性を抱えてしまう。
「高いレベル」は技術や能力の獲得、自己尊重の動機付けや自立性の自己意識である。技術や能力の獲得に関しては、具体的な経済生活の土台になる。重要なのは自己尊重や自立性を自ら意識化し、内在化することである。技術や能力は生活の土台になりうるので、後者の自己尊重や自立性に関わってくるが、全てを網羅することはできない。ここに少しばかりの「形而上」への足がかりを感じることができる。
自己実現欲求は「超越化していないレベル」と「超越化したレベル」という2つの水準に分かれる。
「超越化していない」自己実現欲求は対象化できると見なされる。自己実現欲求は欠乏欲求ではなく、存在欲求なので、対象を消費者と設定すれば、消費者が欲望するブランドイメージ、そのイメージが体現している価値観を自ら身につけることになる。例えば、ライフスタイルを提示され、それを自己のイメージとして、あるいは理想として受容し、体現しようとすることである。
しかしながら、この「超越化していない」自己実現欲求は先に挙げた物質的な欲求やその変換としての記号としての欲求である。もう一方の「超越化したレベル」の自己実現欲求は精神的な水準にある。その意味で、言語化しようとするが、究極的には言語化できない領域にコミットするような欲求である。マズローは見返りを求めない、自我の忘却を伴うような欲求として自己超越とする。だから、仏教で言えば、悟りを開くという領域に開かれる、そんな欲求を超えた欲求なのであり、形而上になる。
承認欲求における「高いレベル」と自己実現欲求における「超越化したレベル」にこそ創造性、想像性がある。僕たちは何かわからないけども「語りえぬもの」が真に大切なことだとどこかに抱えていれば、それ以外の欲求もまた節度あるものとなると思われる。