1952年の作品。黒澤明監督の『生きる』。
今から70年も時間は経過している。ところが、現在の日本となんら変わらないように見えてしまう。その日本文化の硬直した性格、変わっていないのである。
『生きる』の主人公は市民課課長。何かあれば、管轄が違うとして、多部署に回す。市民はあっちに行ったりこっちの行ったりと埒が明かない。いわゆるセクショナリズム。縦割り行政。
何か業績を上げれば、上役のお陰。下の者の力は上役に依存していると皆納得している。ただどこかおかしいとは感じている。だから違和感は持っている。
主人公はセクショナリズムを乗り越え、あの違和感を無視する。周りの者は主人公の尽力であることを知っているにも関わらず、この違和感を乗り越えられないで、日常業務に頽落する。とはいえ、主人公の葬儀で参列者たちは、主人公のようにあるべきと、皆で盛り上がる。
ところが、結局はなんら変わる事なく、セクショナリズムや違和感を抱えたまま日常業務に頽落していく。
これが1952年の日本の風景。それから70年以上経つが、同じような風景が広がったままではないか。
当たり前のように業務を行ったり、不正を正したり、例えば自民党がおかしいなら自民党に下野してもらうように行動すればいいだけであるが、そういう方向には遅々として進まない。政治は国民の生活を豊かにしていけばいいのだが、そうなっていない。そうであるならば、変えればいいのである。当たり前だ。
『生きる』でも、いったん盛り上がりを見せる事はあったように、多少日本社会でも不正に対して、不満を抱き、盛り上がる。続くだろうか。権力を持つ者は、民衆など飽きやすいから、時間が経てば、忘れると高をくくっているのではないか。そして、そういう民衆というか、大衆の性格。
個々の問題に関して、具体例をあげる必要もなく、以前見た風景が戻るだけ。それが日本人なのだろうか。いや人間の特徴でもあるのだろうか、それとも日本人にはそういう特徴が顕著なのだろうか。
保守とは守る事だが、壊さない事である。誰が壊しているのか、ちゃんと見た方がいいと思う。ちなみに僕は保守思想というわけではない。
とはいえ、不正があらわになる事は、不正があらわになっていなかった時とは、何かが変化している。僕はその変化に少なからず期待していく。