Drマサ非公認ブログ

川崎殺傷事件の雑感(後半)

 僕たちはこの凶行に信じられないという思いを抱く。確かに信じられないような出来事に違いない。

 「不良品」とのいう言い方には、彼の生得的な問題点と51歳になるまでの人間関係や環境といった後天的な問題点どちらに重きが置いてあるのかはわからない。単純に言えば、遺伝と環境である。ただ構造主義生物学によれば(池田清彦『構造主義科学論の冒険』参照)、どちらかが完全な決定的要因となる訳ではないことがわかる。つまり決定論という見方は横暴なのである。

 こんな遺伝子があるとは思われないが、例えば殺人をする遺伝子があったとして、その遺伝子が現実に発動するか否かはどのような人間関係を構築してきたのか、環境との関係はどうであったかによって、全く発動しないこともある(遺伝子の発動という言い方をするのかはわからないけれど、文脈から理解して欲しい)。

 ここであえてこの凶行に及んだ51才の男性が構築していた人間関係や環境を想像してみると、その人生のあり方に何を見ることができるだろう。僕たちの想像力の問題であるが。

 不安や悲しみは誰にでもある。孤立してしまう人間もまた存在する。不安、悲しみ、孤立は何かの出来事や出会いによって和らぐこともあるだろう。「やまない雨はない」とでもいうように。

 終わりがあるというのは救いである。終わりがあると信じられることは救いである。しかし、彼にそういう思いを抱かせる人生の出来事や出会いはあったのだろうか、そんなことを想像してしまう。

 じつは不安や悲しみがなくなることは人生にはあり得ない。と同時に、喜びや楽しさがなくなることもないのが人生であろう。これらが共存しているのが人生でもある。問題は喜びや楽しさを失うというか、そう感じる心を失ってしまうことではないだろうか。宗教やある思想、時には人との出会いが不安や悲しみと共にいることを気づかせてくれる力を持っている。でも、彼には訪れなかったし、訪れたとしても気づく力を構築してこれなかった。

 だから、不安や悲しみを抱きつつ、それらと共に生きることが生きるという意味に出会うことになることも彼にはなかった。ついには不安や悲しみ自体が常態化され、不安や悲しみでさえなくなってしまう。それは人の心を失うことである。これは比喩的に人間であることを失ってしまうことでもあるが、同時に人間だからこそ起きてしまうことでもある。

 被害者やその家族には申し訳ないことをいうけれども、彼の人生は悲しい。救いがないのだ。

 僕はひょっとして反社会的な思想を述べているのかもしれない。なぜなら、彼の悲しい人生に思いを寄せて、そこに自分自身の心の痛みもあるのではないか、そんなことを語っているのだから。

 ひょっとしたら僕たちの周りに彼のような人生を送る者がいるのかもしれない。僕たちはそれに気づき、僕たちもまた「やまない雨」に打たれていることを共有する機会があればなと思う。

 多分、多くの人は幸運だっただけではないだろうか?大多数であるから気づかない、そんなことはないだろうか?

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