土曜日夕方、やっと自宅に戻れた。ただ妻とテレビを見ながら、のんびり過ごす。久しぶりに自分のベッドで就寝。
翌日は丸1日やることもなし。久しぶりの妻の手料理である。ところがだ。私の病気のせいで食事に制限がある。妻はそれを意識して料理しなければならないので、面倒をかけてしまう。水分は1日1.5リットル。これは勝手に調整すればいいだけなので問題ない。
問題は塩分とたんぱく質の調整である。タンパク質は食べ過ぎなければいいだけではあるが、卵が面倒だ。黄身はいいのだが、白身は取りすぎてはいけない。白身は1日に半分。妻は卵料理が得意でもあるので、白身だけ取り除くというのは現実的ではない。
栄養学と共謀(笑)し、医学的に設定されているというが、全体論を欠いた科学からもたらされた知見だと思うが、そんなこと考え出したら面倒なので、ほどほどに対応することにしておく。
で、塩分という点では、料理を薄味にというだけではなく、ハムやソーセージ、そして魚の練り物といった加工品は塩を使っているので要注意である。麺類はスープは飲まない。
妻は真っ直ぐすぎる性格。ダメと言われると、とにかく使わないようにするし、料理に塩や醤油、味噌をほとんど使わなくなってしまう。私は炒飯が好きなのだが、ハムやソーセージはアウト、卵もアウト、塩も醤油もアウト。それでは炒飯ではない。妻は魚の練り物が好きなのだが、私には良くないとして、使おうとしない。
サラダや野菜料理が中心となるが、妻だって物足りないだろう。そこで妻は魚料理を味付けが濃いものと薄いものを2つ作るようになる。大抵は煮付けなのだが、私の方はもちろん味があまりない。
とはいえ、意外とすぐに慣れてしまう。味付けにも慣れ、妻自身“二重料理”することにも慣れたという。
料理以外はただ静かに過ごすだけである。のんびりしていてなかなかいい。
月曜日からは仕事を再開するが、週に3日程度勤務し、なおかつ身体と相談しフルタイム稼働しなくてもいいことになる。職場が気を使ってくれたようだ。その分給料は低くなるが、しょうがない。
ところがだ。それほど働かなくていい生活というのが人間にとって大変無理がなく、ストレスフリーなのである。近代になってからの方が人間の労働時間は長くなった。近代初頭は労働時間が長かったが、労働運動や社会民主主義的な思想が現れるようになり、8時間労働のような考えが作られてきた。
近代以前の人々の労働時間を推察すると4〜5時間程度という説があるぐらいだ。いわゆる自営業の人々は生活の中に労働が組み込まれていたので、労働を自ら制御することができたし、共同体はそれを当然としていた。農業で時期的に労働が過密する時期があるにせよ、意外と間暇をもつ社会であったともいう。
現代社会の人間ほど労働に時間を取られている社会というのは、どこか人間に無理させていると思われる。しかしながら、多くの人々が長時間労働に人生を取られていることが自明であるがゆえに、そこに問題があるなどとは思わない。だからといって急にそのような社会状況からどうやって離脱すればいいのかという意識になってしまうだろう。
私たちは一生懸命労働し、勉強し、資格を取ったりする。そうすると、その努力の成果として成功や豊かさを手に入れられるという価値意識を有するように方向付けられている。そこにはナポレオン・ヒルのような思想や自己啓発や自我強化を正しいとする自己心理学が待っていたりする。
ちょうど身体がまだ十分な状態でもなく、余裕を持って生活していると、そんなことを考えていた。
木曜日は病院に行って核医学検査である。