87年英。初見。実話。Rアッテンボロー監督。158分。
緊張の映画。よくできていた。
Kクライン、南ア新聞社社長ドナルド、
ケビン、目立たない俳優か・・これは適役だった。
彼の妻がしっかり夫を支え、脱出への道を開く。
強い妻、5人の母。
ドナルドは本作の原作者、制作、顧問にかかわった。
妻の存在が大きい映画。地味な知らない女優。
Dワシントン、ビコ役、反政府活動家。
これほど若い彼をみたのは初めて。
南ア、75年頃からの物語。アパルトヘイト時代。
以前読んだ南ア出身の作家 クッツェー、を思った。下記
初めドナルドはビコの運動をそれほど、
よくは感じていなかったが、彼と話すようになり、
アパルトヘイトの現実、実態、
黒人スラムの暮らしを見、彼と交流を持ち話す。
新聞記事に掲載しようとするが・・
ビコは政府に拘禁、拷問で死んでしまうが
病死と隠される。何とかビコの遺体写真を撮るために
安置所へ忍びこみ何枚も撮影、ひどい拷問だった。
ドナルドはショックを受ける。
彼は5人の子供、妻、黒人の家政婦と犬、
仲良く暮らしている。
妻の父母も近くに住み南アが故郷。
ビコへの仕打ちを記事にし、世界へ発信したいと思うが、
だんだん彼にも監視がつく。
妻はビコの本を出すことは初めは反対した。
つねに誰かが外にいる。ある日、
子供たちへビコのTシャツが届く。
それを喜んできると、布に薬をしみこませてあり、
肌がかぶれ、子供たちは痛く医師へ。
ここまでひどい事を~妻は反対だったが、
夫に本を出そう、と言い、夫婦で団結する。
子供たちは18歳未満、感じる事はあるが、
父母を信頼している、のびのびしたよい子供たち。
77年大晦日、政府たちは飲酒で泥酔、目が少ない。
チャンス、脱出を決行する。
ドナルドは神父に化け、偽パスポートを
地元の神父が準備、綿密な計画をたてた。
映画「アルゴ」のような緊迫感の後半。
妻子6人は父母宅へ行き、
その後休暇で隣国へ行く事にした。
大事な愛犬はおいていくしかなかった。
妻が子供をのせ車で走行、夫と電話で待ち合わせる。
ドナルドはヒッチハイクでかなりの距離をいく。
川も渡り黒人たちに助けられた。
やっと国境を越えられた。
妻の運転で妻子も超え合流でき、英の大使館?へ駆け込む。
手配の小型飛行機で国を飛び立った。
最後、南ア政府から追撃を受ける可能性がある。
パイロットに連絡が入るが、何とかかわし
故郷を空から見て離れた。
ドナルドは78年英国で「BIKO」を出版。
妻と共にこの映画の顧問も担当。
ビコはこういった。
「ビコの友人は私の友人」
「人々の意識が変われば、国も変わる」
62年南アは反政府者は裁判なしの投獄を合法化。
76年6月、大暴動で700人を射殺、4千人負傷。
87年6月、非常事態宣言が発令、
死者などの公表はなくなった。
ラスト、クレジットでは
これまで投獄された人物の名が出る。
死因は自殺、転落、自然死、転倒、
てんかん、逃走し射殺、
自殺が多かった。
ビコはハンガーストライキ、と出た。
南アの今の状態はどうなのか・・調べてみたい。
読んだクッツェー「恥辱」は本へ書いている。
読みやすかった。小説にも南アの政治があったが
多くは書けなかったかと、この映画を見て感じた。
60年代はケープタウンの大学で過ごしていた。
72年からケープタウン大学教授。
〇ジョン・マックスウェル・クッツェー(John Maxwell Coetzee, 1940年2月9日 - [1] )は、
南アフリカ出身の小説家、エッセイスト、言語学者、翻訳家で、
2003年のノーベル文学賞の受賞者。オーストラリアの市民権を取得している。
クッツェーは南アフリカのケープタウンのモーブレーで、アフリカーナーの系譜にあ
たる父親ザカライアス・クッツェー(1912–1988)と母親ヴェラ・ヴェーメイエル・
クッツェー(1904–1986)のあいだの第一子として生まれた。
弟にデイヴィッド・クッツェー(1943-2010)がいる。
少年時代をケープタウンと内陸の町ヴスターで、ハイスクールと大学時代を
ケープタウンで過ごし──この間のエピソードは回想記風の作品『少年時代』
(1997年)や『青年時代』(2002年)に詳しい──
1960年に英文学の学位を、1961年に数学の学位を取得してケープタウン大学を卒業。
1961年にイギリスに渡り、コンピュータープログラマーとして働きながら、
フォード・マドックス・フォードについて修士論文を書く。
1963年にケープタウンに戻ってフィリパ・ジャバーと結婚。
その後、1965年に渡米してテキサス大学オースティン校で学び
、サミュエル・ベケットの初期作品の言語学的研究で博士号を取得~~
アメリカ合衆国永住を希望していたが、ヴェトナム反戦の学内集会
(学内に警察が常駐することへの教職員の反対集会)に出ていたとき参加者全員が逮捕され起訴された(翌年全員が無罪)ことが原因でビザ取得がかなわず、
1971年に南アフリカに帰国して、1972年からケープタウン大学で教職に就く。
1974年に初作『ダスクランズ』を発表し、肉を食べないヴェジタリアンになる。