銀の人魚の海

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ゴーゴリ ロシア映画 wowow放映 

2019-06-23 | 外国~ 映画 TV DVD 芸能人など

wowowに入り、多数録画鑑賞していて、
今夜は、ゴーゴリのロシア映画、wowow初、第一章を見たら、
あ❗
刑事役、オレグメンシコフだった。
お久しぶり、こんなところで出会うなんて。

オレグメンシコフ。
太陽にやかれて、イーストウェスト、など、
好きなロシア俳優さん。

以前雑誌の記事で、ロシアでは映画が作りにくいとかいていた。

ヘレンミレンのドラマ、第一容疑者、に犯人役で1エピソードを
見たのが最後だった。

また見られて良かった、が、一章であっという間に
残酷に殺されてしまった🙇

以前と体型も変わらず、お元気な姿。

ピアノがセミプロ並みで🎹
映画でも披露している。

このロシア制作映画、ドラマか~シュール、斬新。
ロシアもこんな映像がとれるようになったのね。🌀

wowowで今月ロシア映画、2本見ていて、ここへ
書いているが、これがベスト。

ゴーゴリ、昔1冊は読んでいる。
42才で餓死での死とは、びっくり‼️

以下、ネット、wikiから。

⚪文豪ニコライ・ゴーゴリは若かりし日、
ある村で連続殺人事件の解決を目指す。

WOWOWの放送が日本初公開となるダークファンタジー
「ゴーゴリ」シリーズ3部作の第1作。

サンクトペテルブルクの秘密警察で
書記官をしている作家志願のゴーゴリは、
犯罪解決のヒントになるビジョンが頭に浮かび、
その能力を認めた刑事グロー~メンシコフ扮する~に同行し、
ディカーニカ村へ。

そこでは3人の若い女性が殺される事件が立て続けに起きていた。

各犯行現場では、馬に乗った“黒騎士”が目撃されていたが、
ゴーゴリはダニシェヴェスキー伯爵の美しい妻リザと親しくなる一方、
亡くなったはずの若い女性オクサーナとも知り合い……。

⚪ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリ(ウクライナ語:Микола Васильович Гоголь[1] / ロシア語: Николай Васильевич Гоголь; 

1809年4月1日(ユリウス暦3月20日) - 1852年3月4日(ユリウス暦2月21日))は、ウクライナ生まれのロシア帝国の小説家、劇作家。

ウクライナ人。戸籍上の姓は、ホーホリ=ヤノーウシクィイ(ロシア語:ゴーゴリ=ヤノフスキー)である。『ディカーニカ近郷夜話』、『ミルゴロド』、『検察官』、『外套』、『死せる魂』などの作品で知られる。~

ゴーゴリはその残りの人生の大部分をドイツとイタリアで過ごした。

その頃の手紙によって、ゴーゴリには同性愛的傾向があったと言われる[3]。
1839年に恋人の突然の死を経験するが、その事件が彼の後半生にどのような影響を与えたのかについては未だ謎が多い。

『死せる魂』と『外套』を書いたのはこの頃のことである。

『死せる魂』第一部は1842年に刊行された。ゴーゴリにとって、第一部は克服すべきロシアの腐敗を描いた序章にすぎず、

第二部・第三部において主人公チチコフの成長と魂の救済、美と調和を体現する理想のロシアが描かれる筈であった。

しかし、執筆は遅々として進まず、1845年、苦悶のあまり第二部の草稿を火中に投じる。1847年、『友人との往復書簡選』[4]を出版。

その頑迷で教条的な説教と、帝政と農奴制を賛美する反動思想とにより、ベリンスキーをはじめそれまでゴーゴリを高く評価してきた多くの支持者を失う。
1848年、次第に信仰にのめり込んでいたゴーゴリはエルサレムへ巡礼に旅立つ。

エルサレムより戻った後、聖職者コンスタンティノフスキーの影響のもと、信仰生活のために文学を棄てることを決心し、書き溜めてあった『死せる魂』の第二部をふたたび焼いてしまう。

彼がモスクワで断食により歿したのはその10日後、1852年3月4日のことだった。
『死せる魂』の第二部は、その一部が残されており、刊行されている。




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