南の島で幼稚園の先生になろう!

帰国しました。日本で元気に職場復帰しています。

やっぱり日本に帰らなきゃ

2008年03月11日 | ミクロネシアで思うこと
帰国まで10日を切ってしまいました。

僕がこの南の島で約2年過ごして、一番幸せだったことは、一度も日本に帰りたいって思ったことがないこと。

それは、決して日本が嫌なわけではなく、大好きな日本を去って、大切な人たちとさよならしているから、今の南の島の暮らしがあるから。

JICAにはクロスロードという雑誌があります。そこに現職参加の先生が手紙を子供達に書くコーナーがあって、昨年その投稿に応募しました。

なんとそのシリーズは100回以上続いているのに、幼稚園の先生の手紙は今までゼロ。

確かに子どもの返事が大変ですから(雑誌には子どもからのメッセージも載ります)
今回、僕の職場の園長先生のご理解で、卒園生に僕の手紙の返事を依頼して、それもクロスロードに載ります。

依頼してくださった園長先生、そしてその園長先生が頼むと「大好きな先生のためなら」って喜んで協力してくださった保護者の方がたくさんいてくださいました。

本当に僕は幸せな環境にいるのだろうって。

この南の島にまだまだいたい気持ち、遣り残したことがあるけど、そんな温かい気持ちを持ってくれている人のいる日本に帰らないとね。

帰ります。21日に。
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南の島で「人生なんてそんなもんだ」

2007年11月08日 | ミクロネシアで思うこと
南の島で「人生なんてそんなもんだ」って、僕のおじいさんが僕によく話される言葉。

何度も話すけど僕の南の島のおじいさんは85歳。僕のたった一人の本当のホストファミリー。「人生なんてそんなもんだ」って日本で話される。

僕は正直、初めおじいさん一人の家に暮らすことが決まったとき、少し落胆した。
(おじいさんごめんなさい)
僕はたくさんの家族と暮らしたかったし、この南の島に来ると希望したのも、任期が終えてからも度々南の島に足を運んで、長く付き合っていきたいって思っていたから。第二の故郷にしたいって思っていたから。だから子どもたちと仲良くなっていつでも南の島を訪れることが出来たらいいなあって。何年も何十年も

でも人生ってそんな思い通りにはならない。お祖父さんの言う「人生なんてそんなもんだ」って言うことだろう。

そう、どんなに願っても思い通りにならないことはあるし、それが思いもよらぬ幸運を呼ぶこともある。

でも僕はこのおじいさんと一緒に過ごせて、今は最高に幸せだ。
そして、決まった家族ではないけど、僕をホストファミリーとして受け入れたいと思った人たちではないけど、(僕を受け入れようと思ってくださったのはおじいさん)お祖父さんの世話をするいろいろな人と暮らせることが大きな幸せだ。

活動先でも「よーしうまくいってきた」って思うと、とんでもない落とし穴が待ち受けていたりする。それは南の島でも日本でも同じだけど。

なかなかおじいさんのように「人生なんてそんなもんだ」なんて悟りを開くことはできないけど、いろいろな困難を素直に受け入れられる人間になりたい。

「人生なんてそんなもんだ」って何か投げやりに聞こえるけど、おじいさんの言いたいことは、そんな投げやりな気持ちではなく、うまくいかないこともいっぱいあるし、喜びもいっぱいある、それを自分の運命として受け入れていくことだと思っている。

どうせ、分からない人生なら好き勝手に生きたらいいっていう人もいる。
また反対にだからこそ慎重に生きて生きたいって人もいる。

僕の生き方ってどうなんだろう?

周りの人はよく「幸せだね、自由に好きなように生きていいね」って僕のことを言う。

そんなに自由に生きてきたつもりはないけど、それって良い生き方かもしれない。

人生なんて先が見えないから、今を一生懸命に後悔することなく生きたい。

僕のモットーは、人は自分がしなかったことでする後悔の数より、自分がしたことでする後悔の数の方が断然少ない。つまりまずやってみること。
結構こう見えても僕を良く知る人は慎重派だってことを知っているから。

そういいながら、躊躇してためらってしまうことも多い自分に反省。

人生なんてそんなもんだって、いい意味で開き直って何が起こってもびくともしない強い精神をもちたい。

この南の島の生活もそんな自分に近づくために一歩と信じて。
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南の島のホームシック

2007年11月07日 | ミクロネシアで思うこと
この南の島に来て、はや1年4ヶ月が過ぎた。
この南の島に来たのは、決して日本の生活が嫌になったり、嫌いになったわけではない。
協力隊に参加するときは、自分が日本で頑張っているときって決めていた。
協力隊に参加するのに、日本でスランプだからみたいに後ろ向きになりたくはなかった。

人から「なんで協力隊にいくの?」って不思議がられるくらい順調なときにこそ行きたかった。
だから今でも協力隊に参加するときが決まったときも、日本が大好き、職場が大好き、家族が大好き。

その気持ちは今も変わっていないけど、この南の島で日本に帰りたいなあ、日本に帰ってあんなことしたいなあって思ったことがない。

もちろん、人種も文化も習慣も違うこの南の島でうまくいかないことなんて山のようにある。僕がこの南の島に来て、本当に意味があるんだろうか?って考えたことはあるけど、だから帰りたい、やはり日本に戻りたいとは思わなかった。

それってこの協力隊に参加して、本当に幸せなことだと思う。
多くの人が多かれ少なかれホームシックにかかるって、聞くから。

この1年4ヶ月、家族との友達とも誰とも会ってない。多くの隊員は家族や友達がこの南の島を訪れるのに。それって僕が孤独になれているのかな?なんてちょっと心配になるけど・・・

あと残す時間は本当に限られているけど、こうして元気に南の島で生活が送れることを感謝しよう。

そして、「自分で勝手に困難だ」と言って壁を作らず、「どんなときでも自分のやるべきことはある」と思って、自分で道を作っていこう。

今日はちょっと南の島で考えました。
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南の島で慣れることと感動することについて考えてみる。

2007年10月18日 | ミクロネシアで思うこと
南の島で生活を始めて、はやくも1年と3ヶ月が過ぎました。
この島に来て当初見るものが新鮮でした。
私の幼稚園は海に面していて、目の前は海が広がり、海にはマントゥ島が浮かびます。
家から幼稚園まで3分の道のりですが、歩いて海が見渡せます。
昔から南の島で生活したかった僕にとっては願ってもない環境。

家からは教会が見え、朝は教会の鐘の音で目を覚まします。

家族が作ってくれるローカル料理の数々。
夜には天気が良ければ、まるで宝石が散りばめているように見える星空。
そして、月の光にやしの木の影が浮かび、川のせせらぎの中で歯磨きをします。

南の島の可愛らしい子どもたち。やさしい家族、楽しい隊員仲間。

日本から来たときはその一つ一つに感動していたけど、今はどうだろう?

感動していたことが当たり前、つまり日常へとなっている。
それって悲しいことでもあるけど、この島の生活に順応して、自分がこの村の人間になってきていることでもある。

慣れること・順応することは成長であると同時に、感動という研ぎ澄まされた感覚が鈍っていくことでもある。

慣れなきゃ活動なんて進まない、でもいつまでも新鮮な気持ちでいることも大切。

後残り少ない生活もこの島でしっかりと根を下ろし、ローカルに根ざしながら、ローカルの視点でみることを大切にしたい。それはここに長く住まなければ、できないことだから。

もちろん1年や2年で分かりきるものでは、ないけれど。

そうしていきながら、いつまでも新鮮な研ぎ澄まされた感覚で感動していきたい。

最後まで感動し続けられる生活を続けていきたい。この島に慣れ親しみながら。

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南の島の停電から考える

2007年10月17日 | ミクロネシアで思うこと
昨日は夜に停電になり、家族みんなが大慌てで懐中電灯を探し、ランプに火を灯しました。

そしてみんなランプに集まって、話をし始めました。

夜は暗いと少し怖くて寂しい、でも明かりがあることでほっとすることができる。

電気がある生活って本当に便利だし、電気とは経済発展の象徴のように思える。

でも電気があればあるほど、物があふれ豊かになればなるほど、経済が発展すればするほど、人は人とのかかわりをわずらわしく思ってしまうのではないか?と。

つまり電気がたくさんある生活を続ければ続けるほど、人は集い語り合う機会が減り、どんどん一人ひとり気ままな?生活に走ってしまうような。

停電して電気がないと南の島の人が大好きなカツドウ(映画のことを昔の活動写真の言葉生きていてKATUDOUとこの島では言います)も見ることができないし、それぞれが好きな場所で電気をつけて暮らすこともできない。そして暗くて怖いという不安から逃れるために、明かりのある場所に集まろうとする。

電気って人が快適に生活するために作られ人が闇夜の不安から逃れられるものなのに、逆に電気があればあるほど、人の心にとっては、寂しい夜になってしまうような。

南の島より発展した日本では24時間電気が煌々とつき、人々がそれぞれ違った暮らしや価値観で暮らすことが当たり前になっている。

もちろん、それが経済発展の象徴であるのだけど。

快適な生活を人間は求める、その代わりに人は大事な人と人が集い語り合うという行為を置き去りにしてしまっているような気がします。

どこで妥協点を見出すことができるのか?妥協点を見出せずにどんどん便利な生活に走るのか?

この島の停電を通して考えました。答えは見つからないかもしれないけど。
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南の島の誕生日 シェアーについて考える

2007年10月16日 | ミクロネシアで思うこと
前にも幼稚園の誕生会のことについては、書いたような気がしますが、改めて。
今日は園児のイザベルラの誕生日。今年になって子どもの誕生日はほとんど、土曜か日曜で幼稚園がある日ではありませんでした。

この南の島では、誕生日当日のみが誕生日であって、日本のように誕生日が日曜日だから、月曜日におめでとうって言ったりはしません。

誕生日なのに幼稚園が始まる時間に来ないので「おいおい欠席かあ」って思っていたら、
少しおめかしして登場。(日本人がぱっと見ても分からないかも?)

昼の給食が終わると、ケーキとアイスクリームが出てきました。
もちろん、イザベラのお家の方が買ってきてくれたものです。

日本では、個人的なお祝いを幼稚園でするなんて絶対ご法度。
それはみんなが平等にするためには必要不可欠なこと。

でも、この島に来ていると、どっちが平等なのかな?って考えさせられます。
確かにお祝いをしてもらうのはイザベラだけど、子どもたちはみんなケーキとアイスクリームが食べられて大喜び。別にイザベラが特別扱いされるわけではなく、みんな美味しいものが食べられることに大喜び。

この島で家に一緒に住む家族の誕生日には何度も遭遇。

そのたびに近所の子どもたちが集まってきて、ケーキを食べるために列を作ることも多々あります。それがたとえ家族のお母さんであっても、ケーキは用意されて、近所の子どもというか、誕生日がこの家であると聞きつけた子どもは、食べられるという感じでしょうか?
いくら寛容な南の島でも、私の家の家族の誕生日だと、私の家の子どもと全く仲良くないと難しいですが。でもこの間は、僕の元生徒のアブサレムは、僕の家の子どもの誰とも仲良くないというか友達でもないのに、昼ごはん食べていきましたが・・・

そして誕生日を通して感じることは、この島のシェアーの精神。
確かにこの島ではシェアーという名の下、勝手に人のものを使っても返さない、貰ってしまうっていう、それはシェアーって言わないよねってこともありますが。
この島に住んで、日本人は(特に自分は)ケチだなって思います。
凄く自分の物と人のものを区別して、明確にする。
もちろん、物質社会では当たり前だし、将来のことを考えて貯金する、蓄えるってこともとても大切。

ここの島の人は、そんな先のことを考えないで、あればあるだけお金を使ってしまうのはちょっと困りものだけど、こうして誕生日に見られるシェアーの精神って僕らももっと見習うべきではないかなって?

自分の生活を豊かにする、それが経済発展や勤労の源だけど、それだけではちょっと寂しいかな?って感じます。

もう少し、僕たち日本人もシェアーをする考えを持つことができれば、もっと社会も心も豊かになって、変な競争意識も薄れるような。
もちろん、資本主義社会ですから、競争心がなくなってしまっては大変なのですが。


お金って凄く大切。でもそれって少々増えても、生活が激変するわけではないような。

年収が500万でも1000万でも、食べる肉の値段が違ったり、乗る車の種類がかわったりするだけで、生活そのものってあまり変わりないのではって?
もちろん、僕もできるだけ給料がよければいいと思うし、お金を毎月貯金して生きているのですが。

こんな話を聞いたことがあります。
一生金持ちな人は、一生貧乏な人と一緒だと。
つまり、お金がない人がお金を持つようになって、こんなことができるようになったと感じるのであって、ずっと生まれたときからお金を持ち続けている人は、お金のありがたみ、お金が増えた喜びがわからないから、貧乏なのと一緒だと。

もちろん、生きるのにも困るほどの貧困は、また別の問題があるので、一緒には語ることができませんが。

話がいろいろなところに行ってしまいましたが、子どもたちと一緒に分け隔てなくケーキを食べて、とても幸せな一日でした。

最近、凄く美味しいものを食べるとおなかの調子が悪くなるのは何故?
お腹がローカルの生活に馴染んで、日本食とか美味しいものを連続して食べるとどうやらローカル仕様のお腹がびっくりするみたい。
嬉しいような、悲しいような。
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南の島での誓い いつも自分に負けている人は何もつかめない

2007年10月14日 | ミクロネシアで思うこと
久しぶりにMONKEY MAJIKを聞いた。
曲は「around the world」
日本を出発する少し前に孫悟空のテーマで大ヒットしていた曲で大のお気に入りでした。

そして、この歌をくちづさみながら、お別れ遠足で動物園に行ったなあ。
子どもたちもドラマの孫悟空をみていた子はこの歌を知っていて
子ども達に「先生この歌すきなん?」って聞かれて
僕は「先生この歌の around the world いつでも自分にaround the world いつ負けている人は around the world 何もつかめないって歌詞が大好きなんだ」って話したのを思い出しました。

本当に「いつでも自分に負けている人は なにもつかめない」って真実。

この南の島に来て、「いつでも自分に負けていないかな」って改めて考えてみると。

日本で子どもたちとあんなに楽しかった生活、他にも日本に大切なものをいっぱい残してきてまで、協力隊に参加して、いま南の島にいる自分がいる。

深刻にではなく、自分を振り返ってみてどうだろう?
自分にいつも負けてないかなって?

正直、南の島でこの島に馴染みながら、いや馴染みすぎて、自分に非常に優しい、いや自分に非常に甘い自分が存在しているのも事実。

うまくいかなくても、しょうがないか国が違うからなあ、価値観違うからなあ、環境違うからなあって。

もちろん(こんなところで自信もって言っても困るけど)活動自体はうまくいかないことだらけ。

今まで自分が日本で信じてきた幼児教育なんてこの島ではなかなか受け入れてもらえない。

全く違う次元で幼児教育が展開されているし、それはそれでこの島には必要なことなんだとも思う。

自分でいいと思っていても、この島の誰もが望んでいないことを独りよがりでしても何も生まれないし、自己満足で終わってしまうだけだから。

でも、この南の島に来て、何もつかめなかったら、本当に自分にいつも負けている人間になってしまうからね。

あと5ヶ月と少し。時間は確実に短くなっていくけど、

日本に帰ることも楽しみだし、この島にいることも楽しい。
世界で2つ住むところが選べるなら、もちろん日本とこのポンペイ。

でも僕の生まれた国、最も愛すべき国、大好きな人が待っているところは日本のはず。

年老いた両親の姿に目をつぶって、子育てに忙しい姉貴に「2年間頼んだよ」ってお願いして、出てきた日本。

大変なこともたくさんあるけど、子どもと一緒にいることが大好きで、人間教育をしている、その子どもの人生の進路相談をしているんだって意気込みでしてきた神様が僕にあたえてくれた仕事である幼稚園教諭の仕事。
その使命感をいつも僕に与えてくれる子どもたちとの素敵な出会い。
僕を支えてくれる子どもたちとご家庭の方。
そして僕が仕事をしていて躓いたときにいつも助けてくれた職場の仲間。
思い出してみると他にもたくさん
この島に来るために、結果的になげだしてしまったようになったNGO。
出発間際ばたばたして、何も告げずに来てしまった開設以来続けてきた震災遺児施設の子どもたち。
一緒に国語教育研究をした小学校の先生。

数えだしたらきりがないからもうこれくらいにしておきます。

でも南の島に旅立つことになって、改めて再会できたこともあった。

送別会を開いてくれた、もう大きくなった元園児達。
職場を訪ねてきてくれて昼ごはんを一緒にご飯を食べた元園児。
元園児のおばあさんが和紙で紙人形を作ってくれた。
出発前に駅で急に僕を呼び止めてくれた元園児のお父さんまで。

大切な人がいっぱいまっている日本に帰るときには、たくさんのお土産を手にして笑顔で帰りたい。


いつでも自分に負けず、たくさんの物をつかんで日本に帰りたい
いや帰らなければね。

それが、2年間まってくれていた人たち、笑顔で僕を送り出してくれた人への何よりのお土産になるはずだから。

かなり、気恥ずかしい文章だけど、こうして書いておかないとすぐに自分に負けしてしまう人になってしまいそうなので。あえて恥を忍んで。
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強力な応援団

2006年09月13日 | ミクロネシアで思うこと
今日日本から荷物が届いたと事務所から連絡がありました。
私たちの荷物は家に届くのではなく、事務所に届いてそこに自分から取りに行きます。

その中には日本の職場である幼稚園の先生にお願いした日本の体操のテープがありました。
一つ一つちゃんと背中にイラスト入りの。本当にありがとう。
新年度が始まるまではいろいろな遊びができると夢を膨らませていたけど、今はとてもいろいろな遊びを提案することは難しいのですが、きっと子どもといろいろな体操をしてみせる。

その為にも今は、現地の先生や幼稚園が望んでいることを着実にこなして、僕のことを理解してもらって、また僕も今の幼稚園のことを理解しないといけないと思います。

一番期待していたウクレレの楽譜は自宅で行方不明になっているみたいで捜索中です。
新兵器も手に入れました。近々公開できるように頑張ります。
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