【17】へ
手塚の顔がすぐそこにあることで、ひとつの記憶が柴崎の脳裏を蝶のようにかすめていく。
ひとつ。いや、三つか。
三回のキスの記憶。
以前、この男と口づけを交わしたときも、こんな風だった。至近距離、顔が近づきすぎると、焦点がぼやけてはっきり見えない。フォーカスがぶれすぎる前にたまらず目を閉じたっけ。
あれから、何ごともなかったように接してきたけれど。
……この男は、あの夜からこれまで、誰か別の女の唇に、唇を重ねたのかしら。
あたしの知らないところで。
夜、深更。うっすらとあごの辺りに無精ひげが伸び始めた手塚を見上げながら、柴崎は思う。
視界は彼の身体に遮られている。天井さえ見えない。
一方手塚は、柴崎の身体に馬乗りになっているという体勢をいち早く解除しなければと思いながらも、どうしても身動きができなかった。
あまりにも、柴崎が綺麗で。魅入られていた。
白雪のようなきめのこまかい肌と、ウエイブがかかった黒髪と。くっきりと夜を切り取ったような大きな瞳と。
塑像のように完璧な造作の顔が間近にある。
いつも見慣れているはずだったが、彼女の「恋人距離」に入れることはなかなかない。ましてや柴崎を組み敷くなぞ、畏れ多い――
というか、考えるだけで脳内、歯止めが利かなくなりそうで、そんな願望はずっと封印してきた。
でも今、手塚は彼女を自由にできる位置にいる。
改めて真上から見詰める。今度は顔から下、折れそうな細い首とかすかに浮かび上がる鎖骨も。そして、乱れたドレスの胸元からはみ出しそうになっているバストラインも。
こんなにスリムなのに、胸はほどよくある柴崎。その二つのまるい丘が開いた襟ぐりから零れ落ちそうだ。
そこに吸い寄せられるように、手塚はソファについていた右手を持ち上げた。
びくりと柴崎が反応する。
それを見て手塚は我に返った。
――今、何考えた、俺。
俺は、いったい何を――
手塚は弾かれたように、上体を起こす。上げかけた右手を背後に回した。しきりにジーンズの尻ポケットの辺りに手の甲をなすりつける。
「ごめん。悪い」
すばやく柴崎から身体をどかし、手塚は床に膝をついた。
柴崎はしばらく同じ姿勢のまま、急に目に入ってきた休憩室の天井を見詰めていた。
呼吸を整えているようにも、動揺して動けないでいるようにも見えた。
「……柴崎?」
あまり彼女がそのままなので、そっと顔を窺う。それなりの距離を保って。
すると、
「……キスされるかと思った」
言って柴崎が笑った。
手塚はほっとした。取り合えず反応が返ってきたことに対しては。
「すまん。やばかった」
手塚は頭を下げた。正座しそうな勢いで。
実際に床に両膝はついたままだ。中腰。
「やばいって何よ」
「理性を失いそうだったってことだよ。みなまで言わすな」
目をまともに見られない。とてもじゃないけれど。
見るとまた、身体が甘く疼いてしまいそうな火種を手塚は抱えていた。
かすかに微笑む気配がして、柴崎がこちらを向いた。
「起こして。手、貸して」
手塚に言う。
笑って見せたものの、まだ少し顔がこわばっているのが見て取れた。
手塚は右手を伸ばしかけ、思い直したように反対の手を差し伸べた。
柴崎はさりげなくドレスの胸元と裾を直してからソファに座りなおした。何も話をせずに。手塚はやはり柴崎が怒っているせいだと思ったが、それは違った。
柴崎はそのとき自分の心に浮かんだ思いについて、分析をしていた。
ここで触れもせず、キスもしないんじゃ、他の女に口づけなんてしてるわけないわよね。
手塚が自分から離れた瞬間、柴崎はそう察した。
そして深く安堵したのだ。
安堵?
どうしてあたしがほっとするのよ?
追求したいようなしたくないような。複雑な思いに捉われていると、ふと落とした携帯が目に入った。数メートル先の床に転がっていた。
「あー。あんなとこに。まさか壊れてやしないでしょうね」
「……お前が素直に見せないからだろう」
手塚が拾って手渡す。
あっけなく渡されて、柴崎が不思議そうに彼を見た。
「見ないの? お兄さんのメール」
「……いい」
「なんで?」
「反省中だからだ」
「なんの反省?」
「だから分かってるくせに、訊くなって」
柴崎は今度は腹の底から笑った。
可愛い男。
そんな言葉がぽっと頭に浮かんで、焦る。
なによ、それ。
なんなの、あたし今まで男にそんな表現、使ったことない。
可愛いだなんて。
でも確かにこのいとおしいようなもどかしいような、膝の上に載せて手のひらでぐりぐりと撫でてあげたい気持ち、優しくしたい気持ちは、それ以外に言い表す言葉がなくて。
混乱しながら柴崎は携帯をそのまま手塚に差し出した。
「見てもいいわよ」
と言いながら。
「……いいのか」
驚いた顔をして手塚は訊いた。
「その代わり、高いわよ?」
「金取る気か!」
手塚が目を剥く。
「お金じゃないわよ、ほしいのは」
携帯の角のところをあごにとんと押し当てて、柴崎が小首を傾げる。仇っぽい仕草だった。
手塚が怪訝そうに彼女を窺った。
「……なんだよ。交換条件か。
お前は何がほしいんだよ」
「……分からない?」
とん、とまた携帯の角をあごに当てる。
手塚は柴崎の口許から目が離せない。口紅が剥げかけている。何も人工の色を纏わない生まれたままの唇の色合いは、ひどく艶かしく映った。瞬きも忘れて見詰めた。
「ほんとに?」
「……」
キスされるかと思った。さっきの柴崎の台詞が脳裏に蘇る。
手塚の喉が、ごくりと鳴った。
「柴崎」
そう呟いて、彼女に身を乗り出そうとした。
そのとき。
フッ。
何かが、そう、例えるなら家電製品のスイッチが切れるようなかすかな音がして。
いきなり部屋が闇に包まれた。
柴崎の姿が視界から掻き消える。
黒一色で塗りつぶされた。
「な、なに」
柴崎が声を震わせた。姿は見えない。すぐそこにいるのに。
目がまだ暗順応できていない。
でも手塚は落ち着いていた。彼は今自分たちを取り巻くありとあらゆる要素を瞬時に頭のコンピュータにかけ、置かれた状況を推理していた。結果は簡単に導き出される。
彼は言った。
「落ち着け。ただの停電だ」
深みのある声が暗闇を震わせる。
「て、停電」
「ああ。雪の重みで送電線かなにかが切れたかショートしたんだろう。大丈夫だ」
非常時でも全く動じることのない、頼もしい声だった。
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手塚の顔がすぐそこにあることで、ひとつの記憶が柴崎の脳裏を蝶のようにかすめていく。
ひとつ。いや、三つか。
三回のキスの記憶。
以前、この男と口づけを交わしたときも、こんな風だった。至近距離、顔が近づきすぎると、焦点がぼやけてはっきり見えない。フォーカスがぶれすぎる前にたまらず目を閉じたっけ。
あれから、何ごともなかったように接してきたけれど。
……この男は、あの夜からこれまで、誰か別の女の唇に、唇を重ねたのかしら。
あたしの知らないところで。
夜、深更。うっすらとあごの辺りに無精ひげが伸び始めた手塚を見上げながら、柴崎は思う。
視界は彼の身体に遮られている。天井さえ見えない。
一方手塚は、柴崎の身体に馬乗りになっているという体勢をいち早く解除しなければと思いながらも、どうしても身動きができなかった。
あまりにも、柴崎が綺麗で。魅入られていた。
白雪のようなきめのこまかい肌と、ウエイブがかかった黒髪と。くっきりと夜を切り取ったような大きな瞳と。
塑像のように完璧な造作の顔が間近にある。
いつも見慣れているはずだったが、彼女の「恋人距離」に入れることはなかなかない。ましてや柴崎を組み敷くなぞ、畏れ多い――
というか、考えるだけで脳内、歯止めが利かなくなりそうで、そんな願望はずっと封印してきた。
でも今、手塚は彼女を自由にできる位置にいる。
改めて真上から見詰める。今度は顔から下、折れそうな細い首とかすかに浮かび上がる鎖骨も。そして、乱れたドレスの胸元からはみ出しそうになっているバストラインも。
こんなにスリムなのに、胸はほどよくある柴崎。その二つのまるい丘が開いた襟ぐりから零れ落ちそうだ。
そこに吸い寄せられるように、手塚はソファについていた右手を持ち上げた。
びくりと柴崎が反応する。
それを見て手塚は我に返った。
――今、何考えた、俺。
俺は、いったい何を――
手塚は弾かれたように、上体を起こす。上げかけた右手を背後に回した。しきりにジーンズの尻ポケットの辺りに手の甲をなすりつける。
「ごめん。悪い」
すばやく柴崎から身体をどかし、手塚は床に膝をついた。
柴崎はしばらく同じ姿勢のまま、急に目に入ってきた休憩室の天井を見詰めていた。
呼吸を整えているようにも、動揺して動けないでいるようにも見えた。
「……柴崎?」
あまり彼女がそのままなので、そっと顔を窺う。それなりの距離を保って。
すると、
「……キスされるかと思った」
言って柴崎が笑った。
手塚はほっとした。取り合えず反応が返ってきたことに対しては。
「すまん。やばかった」
手塚は頭を下げた。正座しそうな勢いで。
実際に床に両膝はついたままだ。中腰。
「やばいって何よ」
「理性を失いそうだったってことだよ。みなまで言わすな」
目をまともに見られない。とてもじゃないけれど。
見るとまた、身体が甘く疼いてしまいそうな火種を手塚は抱えていた。
かすかに微笑む気配がして、柴崎がこちらを向いた。
「起こして。手、貸して」
手塚に言う。
笑って見せたものの、まだ少し顔がこわばっているのが見て取れた。
手塚は右手を伸ばしかけ、思い直したように反対の手を差し伸べた。
柴崎はさりげなくドレスの胸元と裾を直してからソファに座りなおした。何も話をせずに。手塚はやはり柴崎が怒っているせいだと思ったが、それは違った。
柴崎はそのとき自分の心に浮かんだ思いについて、分析をしていた。
ここで触れもせず、キスもしないんじゃ、他の女に口づけなんてしてるわけないわよね。
手塚が自分から離れた瞬間、柴崎はそう察した。
そして深く安堵したのだ。
安堵?
どうしてあたしがほっとするのよ?
追求したいようなしたくないような。複雑な思いに捉われていると、ふと落とした携帯が目に入った。数メートル先の床に転がっていた。
「あー。あんなとこに。まさか壊れてやしないでしょうね」
「……お前が素直に見せないからだろう」
手塚が拾って手渡す。
あっけなく渡されて、柴崎が不思議そうに彼を見た。
「見ないの? お兄さんのメール」
「……いい」
「なんで?」
「反省中だからだ」
「なんの反省?」
「だから分かってるくせに、訊くなって」
柴崎は今度は腹の底から笑った。
可愛い男。
そんな言葉がぽっと頭に浮かんで、焦る。
なによ、それ。
なんなの、あたし今まで男にそんな表現、使ったことない。
可愛いだなんて。
でも確かにこのいとおしいようなもどかしいような、膝の上に載せて手のひらでぐりぐりと撫でてあげたい気持ち、優しくしたい気持ちは、それ以外に言い表す言葉がなくて。
混乱しながら柴崎は携帯をそのまま手塚に差し出した。
「見てもいいわよ」
と言いながら。
「……いいのか」
驚いた顔をして手塚は訊いた。
「その代わり、高いわよ?」
「金取る気か!」
手塚が目を剥く。
「お金じゃないわよ、ほしいのは」
携帯の角のところをあごにとんと押し当てて、柴崎が小首を傾げる。仇っぽい仕草だった。
手塚が怪訝そうに彼女を窺った。
「……なんだよ。交換条件か。
お前は何がほしいんだよ」
「……分からない?」
とん、とまた携帯の角をあごに当てる。
手塚は柴崎の口許から目が離せない。口紅が剥げかけている。何も人工の色を纏わない生まれたままの唇の色合いは、ひどく艶かしく映った。瞬きも忘れて見詰めた。
「ほんとに?」
「……」
キスされるかと思った。さっきの柴崎の台詞が脳裏に蘇る。
手塚の喉が、ごくりと鳴った。
「柴崎」
そう呟いて、彼女に身を乗り出そうとした。
そのとき。
フッ。
何かが、そう、例えるなら家電製品のスイッチが切れるようなかすかな音がして。
いきなり部屋が闇に包まれた。
柴崎の姿が視界から掻き消える。
黒一色で塗りつぶされた。
「な、なに」
柴崎が声を震わせた。姿は見えない。すぐそこにいるのに。
目がまだ暗順応できていない。
でも手塚は落ち着いていた。彼は今自分たちを取り巻くありとあらゆる要素を瞬時に頭のコンピュータにかけ、置かれた状況を推理していた。結果は簡単に導き出される。
彼は言った。
「落ち着け。ただの停電だ」
深みのある声が暗闇を震わせる。
「て、停電」
「ああ。雪の重みで送電線かなにかが切れたかショートしたんだろう。大丈夫だ」
非常時でも全く動じることのない、頼もしい声だった。
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>たくねこさん
オアシスとかパラダイスとか、見に余るお言葉頂けちゃってどうもです!笑
なのにこの仕打ちって…
拍手コメントでも、どんだけ手塚をいじめるつもりですかvvvと頂いております。ハイ
私根本的にSなもので、手塚をいじめるのは「愛情のう・ら・が・え・し」と言っておくです。。。
裏の新連載にもコメント有難うございます>たくねこさん