大学卒業後、数十年ぶりの同級会。複雑な想いを抱えて会場に向かう女。女との再会をバーで心待ちにする男。
ホテルを舞台に、シャンパンの泡のように様々に交錯し、すれ違い、再会する人々の心の機微を描いたヒューマンストーリー。
「人生という迷路をウロウロさまよう人間ほど情けなくってみっともないものはないのよ。でもね・・・・・・」
さりげない会話の中に、人間への深い洞察に満ちた言葉の数々が散りばめられ、希望と微笑みの美しい織物のような物語。
<置き去り口紅ールージュ>
切れ長の目元を入念な化粧で整え、最後に口紅を引こうとして鏡台に手を伸ばした桐子(きりこ)は「きょうは着物を着るのだった」と、思い直して手を止めた。
桐子は着物を着るとき、帯締めを口にくわえておく癖があるので、口紅はすべて着終わってからつけることにしている。桐子は、あらためて鏡の中の自分を眺めた。滑らかな肌は、さすがに50歳を過ぎるとかつてのような張りはないが、すっきりした鼻筋に澄んだ眼差し、微笑むと少女のような口元になる顔立ちは、いつも年齢よりも若く見られた。
時計を見ると3時を少し回っていた。
大学の同級会の知らせが届いたのは、暑さも盛りを過ぎた8月の終わりだった。どうしたものかと心を決めかねたが、桐子は会費を振り込み、出席の通知を出した。
ついでにデパートに立ち寄り、秋の洋服を見繕ったが、最近の流行は好みに合わず、何も買わずに帰ろうとしたら、化粧品売り場の若い子に「秋の新色お試しになりませんか」と呼び止められた。そろそろ夕方になろうとしていたが、家に待つ人もなく、帰る時間を気にすることもない独り身なのでつきあうことにした。
肌がつやつやと光る若い店員は、桐子が、そのみずみずしさに見とれる間もないほど、慣れた手つきで手早く桐子の唇に紅を載せ終わると「コスモス色の中で紫に近い濃いピンクにパール入りは当社の自信作で20,30代向けですけど、お客様は良くお似合いですよ」と小首をかしげて微笑んだ。
「本当?それじゃこれ、いただくわ」
お世辞と判ってはいたが、パールの華やかさに心惹かれ、つい衝動買いしてしまった。
その真新しい口紅を、紅の部分を出したまま、鏡台の真ん中に立てると、桐子は、歌舞伎役者の顔が身頃一杯に踊る、凝(こ)った柄の長襦袢を纏(まと)った。
これは、桐子に着物の着付けを教えてくれた師匠が「呉服屋に、逢い引き用、なんてそそのかされて作ったけれど、似たようなのが箪笥にあったから、あなたにあげる」と、夫の三回忌が済み、50の歳を数えた桐子にくれたものだ。
「私以外に誰かこの柄を眺める人が現れるかしら」
かつて花柳界の名妓と謳われた、という噂の師匠は、80歳を越したとは思えない妖艶な笑みを浮かべ、桐子はぎくり、とした。
長襦袢を一通り鏡で眺めた後、刈安(かりやす)色の着物に袖を通す。卵を溶いた色よりやや薄い黄色の刈安色は桐子のお気に入りだ。そして何より、きょう選んだ帯締めには、これが一番合う。
襟元をきちんと締めて着付けると、光沢銀といぶし銀が短冊幅で縞を作る帯を回してきっちり縛り、柿色で絞り染めした帯揚げを整えた。そして、炭に宿る熾火(おきび)を想わせる熟柿色が、細く斜めに織り込まれた黒地の帯締めを手に取り、少しためらった後、口にくわえた。
後ろ手で帯を手早くお太鼓に作り、平織りの帯締めを勢いよく結ぶと、シュッと心地よい音を立て、一度で綺麗な形に決まった。
鏡に向かって一通り姿を眺め、満足げに笑って、帯の正面をポンと軽く叩いた瞬間、電話が鳴った。コードレスを手元に置き忘れた自分に舌打ちしながら玄関近くまで小走りして電話にでると「あら、桐ちゃんまだいたのぉ」と甘ったるい声が脳天に響いた。
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