MINORI(みのりのブログ)

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人生を振り返る

2017年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昨年末で65歳となりました、
同時に定年退職となりました。
これを機に今までの人生を簡単に振り返ります。

18才で名古屋の建築設計事務所に就職。
16年間務めました。
初めて描かされたのが名古屋城東二ノ門復元工事の図面。
その当時は当然手書き
瓦一枚一枚・鋲一個一個をコツコツと書く。
建築設計事務所ってこんな事をするんだ?!と感じた。
数奇屋住宅・学校建築・野外教育センター・病院・寺・城・共同住宅・・・
中には歴史公園の「竪穴式住居」の図面も書きました。
本当に色々の建築に係わる事ができました。
門・城等はどちらかというと資料による製図。
学校建築も当時は今の様に自由なプランはできず、
標準の教室を並べるだけで、個性的な学校はない。
その中では野外教育センターの施設は楽しかった。
子供達の為の夢のある設計も楽しかったし、
現場は冬の中津川の寒い現場監理であったが、
遣り甲斐があり、思い出深い現場であった。
その頃、一級建築士も一発で合格取得でき、
毎日が新たな経験ができ生き生きしていた。
お寺や別荘の設計も楽しかったが、
難しいというか一番奥が深いと思うのは、
もっとやりたかった数奇屋住宅である。

その後自分で設計事務所を設立し23年頑張りました。
独立してからは、一番やりたかった数奇屋住宅どころか、
一般住宅も依頼がない。
名古屋出身でもなく、顔もない私にはそう簡単に取れるものではない。
仕事がなく、製図板の上で習字をしたりしていた。
そうもしてはいられないので、
マンションディベロッパーの設計事務所の手伝いをしたり、
あちこちの事務所の下請仕事をした。
そんな時に先輩の紹介で、不動産会社の設計部門の一括下請をさせてもらった。
信用金庫・銀行・マンション・店舗・ゴルフ練習場・ビジネスホテル・etc
今まで経験のない沢山の設計に係わる事ができました。
その間にCADの時代が来ると、CADを独学。
独学と言っても、簡単なものではない。
先んじてやっていた先輩・友人には毎日の様に質問の電話・メール。
大変お世話になりました。
手書きの図面仕事をやりながら、CADを習得。
何とか一人前のCAD図面が書ける様になったので、
サラリーマン時代に係わった都市公団(現UR都市機構)
の設計監理をやっていた会社の先輩に売り込み。
共同住宅の設計を任される様になりました。
中部では一番注目される仕事に沢山係わる事ができました。
中でも「スケルトンインフィル」と言われる、
プラン変更がしやすい構造の設計は遣り甲斐があった。
簡単に言えば、100年住宅と言われる様に、
構造的に丈夫に作り(鉄筋の被り厚を厚くするなど)、
意匠的には時代にあったプランに自由に変更できるという物。
(床下が30cmもあり、水廻りを何処でも配置できたり、
壁の下地も大きく、電気等の設備変更もしやすい)
実験住宅を見学したり、色々検討するのが楽しかった。
これからはこれが主流になるとの事であったが、
現実はUR都市機構の民営化で新築が少なくなり、
当然工事費も掛かるので、唯一1棟で終わった。残念!
だが、この経験は私の設計人生の中でも大きな経験であった。
その後、超高層住宅(33階)の監理、駅前再開発(ホール)の監理と、
中々経験できない機会にも恵まれました。
だが、設計も現場監理も少なくなり、
個人の事務所は特に仕事が取れず、事務所を閉鎖。

そして管理部門の職場に就職して6年半勤めました。
始め2年間は安全品質管理の担当で、
全ての団地の安全点検確認・改修住戸の検査指導を行い、
その後、空家住宅の改修工事の発注・見積り審査・現場確認、
入居者対応の担当をしました。
住宅の改修はほとんどが既設のままに戻すだけなので簡単。
間取り変更の改修は、設計の検討が甘く現場納まりに苦労した。
一番経験できて良かったのは、入居者のクレーム対応であった。
信じられない様な無茶なクレームもあるが、
大抵は相手の気持ちになり、誠意を持って淡々と当たれば解決する。
声高に怒っていた方から「キッチリ対応して頂いてありがとう」と
お礼の電話があると嬉しいものであった。

それにしても、よく47年も建築に係わってこれたものである。
あちこちに自分が係わった建物があるのは嬉しいものである。
その中で、沢山の人との係わりが一番の宝物である。

さて、この経験をこれからどう生かすか?
この1ヶ月じっくり考えてきました。
やはり設計・品質管理が自分には一番やりたい事だと思い、
その中で一番自分を必要とされ、活かせる仕事に決めました。
三度目の新たな職場で、期待に答える様、目一杯頑張りたい。