ペンのマークがついた万年筆が、
太平洋戦争の激戦地・沖縄で発見された・・・
「沖縄慰霊の日」である、6月23日(木)付け
「東京新聞」の記事で知りました。
ペンのマークと言えば、慶應義塾大学の校章。
「ペンは剣よりも強し」に由来します。
今、その万年筆が慶應義塾史展示館で展示されていると聞き、
早速、三田キャンパスへ出かけてみました。
(展示館は慶應義塾図書館旧館内にある。1912<明治45>年完成)
「東京新聞」の記事によると・・・
万年筆を発見したのは、
沖縄戦の戦跡で遺骨収集作業に取り組むメンバー。
糸満市の真壁地区で発見されたそうです。
糸満市は沖縄本島最南部で、
ひめゆりの塔や平和祈念公園で知られています。
沖縄戦では、逃げ場を失った民間人が追い詰められ、
日本軍が最後の抵抗を試みた地でした。
(2020年1月撮影。平和祈念公園にて)
かつて「八十二高地」と呼ばれた地には、
陸海群の混成部隊が陣地壕を構えていました。
1945(昭20)年6月、兵士の大半が「玉砕」しています。
77年後、遺骨収集のメンバーが、
壕跡にある大きな岩に積もった土を掘り進めると・・・
岩の下に、この万年筆があったそうです。
当時の大学生にとって「万年筆は学生生活のシンボル」、
ペンのマークの万年筆は、学内の、現在で言う生協で買えました。
持ち主は、きっと、慶應生になると、すぐに万年筆を購入、
ずっと愛用したのでしょう。
学徒出陣後も、手放さず、軍服にしのばせて・・・
万年筆を手にすることは、いつか、学業に戻れる日を信じさせ、
心を落ち着けてくれたのかもしれません。
この万年筆に名前は書かれていませんが、
持ち主が判明する可能性もあるそうです。
というのも、慶應大学から学徒出陣し、
さらに沖縄戦で亡くなった、現役学生や卒業生は131人。
うち、2人の戦没地が、万年筆の発見された真壁地区なのだとか。
実際に、万年筆を見ると・・・
ご覧のように、展示ケースのガラス越しでは、
ペンのマークや「K」「E」は、正直、よくわかりませんでした。
発見者は、「遺品が母校に戻ることができたのはうれしいし、
持ち主が生きた証をつたえつづけることができる」と語られたとか。
おっしゃる通りだと思います。
慶應義塾では、義塾関係の戦没者調査をデータ化し、
今も調査を続けているそうです。
展示された資料によると、慶應の学徒出陣者は387名、
うち特攻は27名。
★学徒出陣者とは昭和18<1943>年12月以降、
在学のまま陸海軍に入隊した者を言います★
(展示館に向かう踊り場にある「ステインドグラス」。
戦災で焼失した1915年作のオリジナルを復元したもの。
ここにもペンマークが見える。)
特攻による戦没者27人の中には、上原良司や塚本太郎がいるはず・・・
データベースを確認すると、確かに二人の名前がありました。
上原は「きけわだつみのこえ」で、よく知られ、
塚本は山口県の回天記念館でレコードの肉声を聞いています。
沖縄で77年間眠り続けた万年筆に、
上原・塚本、お二人の遺品を見ていたら、涙が止りませんでした。
今、思いだしても、泣けてきます。
もっと生きたかったはずですよね・・・
わたしの年齢の半分も生きられなかったなんて・・・
上原・塚本のお二人についても、いずれ、まとめるつもりです。
その折りは、どうぞお立ち寄りくださいませ。
ウクライナでの戦争が長引く中、
今年の夏は、いっそう戦争や戦跡への想いが強くなっています。
本日も、おつきあいいだき、どうもありがとうございました。
参考:「東京新聞」 2022(令和4)年6月24日付
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