萌ちゃんのひとりごと

里山暮らしの萌ちゃんが日々の暮らしの中で思うことを綴っています

満開の桜

2018-03-30 20:15:29 | 日記
今年は気温が高すぎて、桜は開花からあっという間に満開になっている
お宮の桜(山桜)も満開、ウチの桜も満開
周辺の山は、日に日にピンク色に染まっていく
この分だと、散るのも早いだろうなあ
この週末見ごろで、来週は散り始めるかも

ついこの間まで、寒さを堪えていたのに
あっという間に春になり、桜が咲いて散っていく
何とも慌ただしい季節の変わりよう

お宮の桜とウチの桜、満開です
桜見物に来る人などいないけど、桜は精一杯咲いています
誰に見られなくても・・






山城跡トッレキング

2018-03-28 16:06:50 | 日記
初夏のような日になったが
1度登ってみようと思っていた近くの山城跡に登ってみた
〈暑かった~〉 
もう少し気温の低い日の方がよかった

山城跡に行くにはいろんなルートがあるが
「きついよ」と言われていた階段コースを選んだ
登り40分、上でお弁当食べて約20分、下り25分
ざっと1時間半の行程だった

午前中、ピラティス教室に行って、その後だったので
それが堪えた
最初、ひかえめに登りかけたらよかったのに
頑張りすぎたのがまずかった

頂上から眺めた市街地は
春霞がかかりぼんやりしていたが
素晴らしいかった
今度は別ルートで挑戦してみようと思った


頂上まではこんな階段が続いている


登山口から頂上までは1234段、あっと34段、もう少しがんばれー


頂上からの眺め、春霞で靄っているのがチョット残念


これから登るところ、張り切っているが、半分を過ぎたころからばてた













孫のバースデー

2018-03-25 14:34:39 | 日記
近々孫の一人が誕生日を迎えるので
プレゼントにメッセージを添え送った

メッセージには
「・・・私たちは今年70歳を迎えます。
先の見えた・ほとんど選ぶ道のない私たちに比べ
どんな道でも進んでいける〇〇ちゃんがうらやましい
〇〇ちゃんが進んでいく道の先に光がありますように・・・」
というようなことを書いた

このメッセージ、実はちょっと嘘が入っている
迷ったけど、「嘘も方便」ということわざもあるし
〈まあ、いいか〉と思って送った

「私たちは今年70歳を迎えます」・・これは本当
「先の見えた・ほとんど選ぶ道のない私たち」・・これも本当
「どんな道でも進んでいける〇〇ちゃん」・・これも本当
「うらやましい」・・これが嘘

うらやましくなんて、全然ない
70年の山坂を越え、やっとここまで来たのに
若いころに戻って、また、人生をやり直すのかと思うと
ガックリ、ぞーッとする

若いって、いいこともたくさんある
体の不調もなく、楽々動けるし
親のすねかじりの頃は、食べる心配もしなくていい
ものすごい責任も、義務もないし
進路はありすぎて困るほどたくさんある・・
けど、もういいわ

古希を迎える頃になり
体力も気力も徐々に衰えては来ているが
もう、何かに立ち向かっていかなくてもいいし
目一杯頑張らなくてもいい
この先の進路は限られていて、そう迷うこともない

ゆっくり進む時間の中で、ぬるま湯につかっているような暮らし
極楽だわ、手放したくないなあ~

「〇〇ちゃんが進んでいく道の先に光がありますように」
これは正真正銘のホント
孫の行く末に、もう何もしてあげることができないけど
こうやって、祈ることだけはまだできる
この先、多くの試練を受けながら
社会で揉まれ、成長していくのだろうが
元気で生き生きと生き抜いてくれることが
ジジババの切なる願いだ

小石が一つ落ちた

2018-03-23 13:58:19 | 日記
先日来の雨のせいで、家の近くの《春の小川》は
“サラサラ”というより“ゴーゴー”と流れている
久しぶりに上天気になり、気分はすっかり《はる~》だ

先日、お大師講の集まりがあった
3月は、各種係の交代時期で、その引継ぎや
講のルールの改変などの話し合いがあった

今回の会合は、ルール改変の話が何件か出ており
長時間にわたる会合になった
現状に合わなくなった決まりは、その都度変えていくべきで
講中の人たちが、無理なく、楽しく、この地で暮らせることが一番だ
高齢化が進んでいる私達の講でも、改善すべきところはある
が、今回の改変で気になったのは
「お大師講の日は、お茶を出さない」という取り決め

私達の講では、毎月20日に、当番宅に集まり、お大師様を拝んでから
月例会を行っている
かつては、お茶・お菓子が出され、親睦もかねての会合になっていた
そのうち、お菓子はやめようということになり
お茶だけが接待されるようになった

今回の会合では、お茶の接待もなしになった
当番宅の負担を減らし、簡素化するのはいいことであるが
私はちょっと危機感を感じた
〈小石が一つ、コロッと落ちた感じがした〉

年をとり、10何人分のお茶を用意するのは大変だと思う
「しなければいけない」と思うと、それが負担になる
体力も気力も落ちてきて
「お茶の接待がなければいいのに・・」と思う気持ちもわかる

が、そのうち、お大師講もやめよう
月例会もやめよう・・となっていくのではないかと危惧する
「お茶の接待をやめる」という、小さな変化が
地域社会の崩壊の1歩かも・・
大きな崩壊は、こんな小さな〈小石の落下〉という出来事から始まるのかもしれない

次の世代が後を継いでいる世帯が、15軒中3軒だけという
私達の講では、遅かれ早かれ、地域社会の崩壊は避けられない
それはみんな分かっているが
早くもその兆しが表れたかと、ちょっとショックだった