五高の終焉
昭和24年
5月 9日 大学法案反対で五高自治会が14日までのストの決議、
9月 1日 熊本大学第一回の入学式挙行。入学者1,100人(内女子63人)
開校以来約4ヶ月揉めていた学長問題は、鰐淵学長事務取扱が学長就任受託でようやくにしておちついた。
開校以来約4ヶ月揉めていた学長問題は、鰐淵学長事務取扱が学長就任受託でようやくにしておちついた。
9月1日から発足した熊本大学の教官人事は授業開始の予定だった5日まで遂に文部省からの発令がなく、大学側は取りあえず旧制高専の教授に委嘱、準備の整った学科から順次授業を始めることになった。しかし最初の1年半の教養課程はこれまでの大学になかった全く新しい課程であったのでスタートから種々の問題が生じ教師たちはまごついた。
その問題とは新制大学では一般教養課程で一定の単位を取得したものだけが、試験により志望する専門課程に進めるわけだが、現在の施設では落第者が多数ある場合にはそれを収容する能力がなく、一方単位を取得できないものは何時までも専門課程に入れないと云うような事であった。
12月 熊大学長漸く決まる 12月になって選考委員会で学内公選と一応決まりかに見えたが、同委員会の会長であった桜井会長(当時の熊本県知事)から「いきなり公選とはおかしい」とクレームがついた。このため12日に予定されていた公選は保留となり19日開かれた学内、学外協議会において鰐淵取扱を推す事に決まった。
昭和25年
1月 文部省、熊大学長に鰐淵健之氏を発令した。
1月30日 五高で最後の卒業式開催される。376人卒業、五高63年の歴史に幕が下りた。
昭和24年
5月 9日 大学法案反対で五高自治会が14日までのストの決議、
9月 1日 熊本大学第一回の入学式挙行。入学者1,100人(内女子63人)
開校以来約4ヶ月揉めていた学長問題は、鰐淵学長事務取扱が学長就任受託でようやくにしておちついた。
開校以来約4ヶ月揉めていた学長問題は、鰐淵学長事務取扱が学長就任受託でようやくにしておちついた。
9月1日から発足した熊本大学の教官人事は授業開始の予定だった5日まで遂に文部省からの発令がなく、大学側は取りあえず旧制高専の教授に委嘱、準備の整った学科から順次授業を始めることになった。しかし最初の1年半の教養課程はこれまでの大学になかった全く新しい課程であったのでスタートから種々の問題が生じ教師たちはまごついた。
その問題とは新制大学では一般教養課程で一定の単位を取得したものだけが、試験により志望する専門課程に進めるわけだが、現在の施設では落第者が多数ある場合にはそれを収容する能力がなく、一方単位を取得できないものは何時までも専門課程に入れないと云うような事であった。
12月 熊大学長漸く決まる 12月になって選考委員会で学内公選と一応決まりかに見えたが、同委員会の会長であった桜井会長(当時の熊本県知事)から「いきなり公選とはおかしい」とクレームがついた。このため12日に予定されていた公選は保留となり19日開かれた学内、学外協議会において鰐淵取扱を推す事に決まった。
昭和25年
1月 文部省、熊大学長に鰐淵健之氏を発令した。
1月30日 五高で最後の卒業式開催される。376人卒業、五高63年の歴史に幕が下りた。