創建当時からの五高教育制度から
自明治20年~至明治22年 予科・補充科制
自明治22年~至明治26年 本科制(本科・予科・補充科併設)
自明治27年~至大正7(10)年 大学予科制(明治27・8年は、旧予科・大学予科併設)
自大正8(11)年~至昭和25年 高等科制(大正8・9・10年は大学予科・高等科併設)
創建当時の金銭価格
明治21年1月22日 米穀1石 熊本市三軒町 4円70戦
1月13日 牛肉 上1斤8銭 下5銭
4月29日 鶏肉 百匁13銭、 鶏卵1個9厘
土地 1坪25銭6厘
明治42年の金銭価格
寄宿料 1ヶ月 80銭
大学の月謝 8円 下宿寮 3円 靴 2円 服 9円50銭
以下は先に掲載したものと重複するが眺めてください。
明治二十二・二十三年十月三十一日調査の生徒数
二十二年 二十三年
本科 十五
予科
第一級 十一人 四十五
第二級 五十一人 二十八
第三級 三十六人 四十五
予科補充科
第一級 六十六人 五十八
第二級 四十六人 壱百五
合計 二百十人 二百九十六
熊本での最初の位置は古城町であった。この時代は明治二十年から二十二年に至る間で五中の「神代」とも称すべき時であって余の如きはただ「古老」から当時の武勇談をきかされる位である。二十二年龍南の新校舎に移転して茲に九州各地から中学卒業の優秀者を本科一年に収容した。当時本科二年予科三年補充二年の七年制が実行されていたのであった。予が五中に入学したのは龍南校舎建設第二年の二十四年九月であった。豊前の田舎飛出して行って(尤も東京見物に出かけたことはあったが)煉瓦造の校舎に入った時どうした厚い壁だろうかと驚いたこともあり、そして何だか偉くなったような気がしたのであった。・・友枝高彦氏(明治31年文科卒)の龍南懐古拾遺より転載・・・
自明治20年~至明治22年 予科・補充科制
自明治22年~至明治26年 本科制(本科・予科・補充科併設)
自明治27年~至大正7(10)年 大学予科制(明治27・8年は、旧予科・大学予科併設)
自大正8(11)年~至昭和25年 高等科制(大正8・9・10年は大学予科・高等科併設)
創建当時の金銭価格
明治21年1月22日 米穀1石 熊本市三軒町 4円70戦
1月13日 牛肉 上1斤8銭 下5銭
4月29日 鶏肉 百匁13銭、 鶏卵1個9厘
土地 1坪25銭6厘
明治42年の金銭価格
寄宿料 1ヶ月 80銭
大学の月謝 8円 下宿寮 3円 靴 2円 服 9円50銭
以下は先に掲載したものと重複するが眺めてください。
明治二十二・二十三年十月三十一日調査の生徒数
二十二年 二十三年
本科 十五
予科
第一級 十一人 四十五
第二級 五十一人 二十八
第三級 三十六人 四十五
予科補充科
第一級 六十六人 五十八
第二級 四十六人 壱百五
合計 二百十人 二百九十六
熊本での最初の位置は古城町であった。この時代は明治二十年から二十二年に至る間で五中の「神代」とも称すべき時であって余の如きはただ「古老」から当時の武勇談をきかされる位である。二十二年龍南の新校舎に移転して茲に九州各地から中学卒業の優秀者を本科一年に収容した。当時本科二年予科三年補充二年の七年制が実行されていたのであった。予が五中に入学したのは龍南校舎建設第二年の二十四年九月であった。豊前の田舎飛出して行って(尤も東京見物に出かけたことはあったが)煉瓦造の校舎に入った時どうした厚い壁だろうかと驚いたこともあり、そして何だか偉くなったような気がしたのであった。・・友枝高彦氏(明治31年文科卒)の龍南懐古拾遺より転載・・・